「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2017年08月15日

伊佐山紫文25

『世界はなぜ「ある」のか? 「究極のなぜ?」を追う哲学の旅』
ジム・ホルト著 寺町朋子訳 ハヤカワ文庫
 ハイデッガーの『形而上学入門』は「入門」でも何でもなく、真正面から存在の問い「なぜ何も無いのではなく、何かがあるのか?」を問うた、超難解な哲学書である。
 同じ問いを、本書では、まず「宇宙の存在」について、宇宙の始原とは何か、本当に無から有が生じたのかについて、物理学者や天文学者にインタビューして回る。
 難解な部分もあるが、数式も出てこず、また、インタビュー前後の食事の様子なども描かれていて、楽しく読める。
 後半、「私の存在」へと問いが移ると、こんどは哲学者や作家へのインタビュー。
 著者の母親が死に、思い出の場所をあてどなく彷徨うラストには、九年前の母の死を思い出して不覚にも落涙。
 哲学書としては荒い。
 けれどもきちんとした読後感の残る、人生を少しだけ豊かにしてくれる好著である。
 実は30年前、こういう本が書きたくてたまらなかった。
 ちょうど浅田彰の『構造と力』が売れてる時期で、こんなのが10万部も売れるのなら、オレ様の書く本は1億部以上売れて当然だと思っていた。
 その後、雑誌の仕事に疲れ果て、本が出れば売れるはずだからと執筆に専念した。
 で、出した本は売れなかったが、講演の仕事は入って来て、サインを求められることも再々だった。
『ライフステーション』のライバル誌『レタスクラブ』からもインタビューを受け、カラー見開きで写真が載ったこともある。
 あの頃はまだ、フォトジェニックだった。
 なんてったって、28歳だもの。
 そんなこんなで、小金が少し溜まったから、覚悟を決めて長編評論を書こうと思った。
 2年かけて書き上げ、『構造と力』と同じ勁草書房に持ち込んだ。
 すぐに出版され、専門家からの評価も高く、海外の日本文化研究者の必読書として文化庁が推薦する図書にも選定された。
 ただし、売れなかった。
 本当に、恥ずかしいくらい。
『ライフステーション』の読者プレゼントに5冊出したが、応募は2通だけ。
 編集部でもいらんと言われ、3冊戻って来た。
 客観的に見れば、このあたりから時代とズレ始めたのだと思う。
 足掻けば足掻くほど泥沼で、そのうち両親は倒れるし、本を出しても売れる当てはないし、日田に帰って法律家にでもなるか、などと司法試験の勉強を始める始末。
 こんな私には、ちゃんと一般読者に売れる哲学書を書ける著者が羨ましくてたまらない。

 
 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月14日

伊佐山紫文24

『旅の日のモーツァルト』メーリケ作 宮下健三訳 岩波文庫
 メーリケと言えばフーゴー・ヴォルフの歌曲集で有名だが、詩人はモーツァルトをこよなく愛し、こんな可愛らしい小説を書いてもいる。
『フィガロの結婚』の大成功を受け、マリア・テレジアからの依頼により書かれたのが『ドン・ジョバンニ』であり、この初演のためプラハへ向かう「旅の日」の出来事という設定である。
 暗さのひとかけらもないモーツァルト、可愛らしいばかりのコンスタンチェ、気持ちの良い理解者たち……
 絵空事と言えば身もふたも無いが、近代の暴露趣味よりはよろしいと思う。
 ダ・ポンテが正当な扱いを受けてるのも好感が持てる。
 懐かしいシカネーダーの名前も見える。
 ただし、訳文も解説も古い。
 解説では『フィガロの結婚』がウィーンでも大成功を収めたかのような書き方だが、これは違う。
 ウィーンは、後にフロイトやマーラー、クリムトを生み出すような、いわば性欲の抑圧の上に文化の花を咲かすような街である。
 そんな街が『フィガロの結婚』のような、開けっぴろげなエログロナンセンスに拍手喝采するはずがない。
 おそらく原作の貴族批判も問題視されたのだろう、早々に打ち切られたというのが実態だ。
 ところが、ウィーンが東京なら、プラハは大阪。
 東京では敬遠されるような下品な下ネタも、大阪でなら受ける。
 で、プラハでは『フィガロの結婚』は大成功を収め、マリア・テレジアからの依頼も舞い込んだ。
 これが『ドン・ジョバンニ』として結実し「旅の日」につながって行くというわけ。
 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月14日

伊佐山紫文23

『CO・OPステーション』という、コープこうべの店頭に置いてある雑誌の今月号(9月号)に『神戸事件始末 瀧善三郎の最期』の記事が三本載っている。
 集客の最後の追い上げになんとか結びついて欲しいものだ。
 祈るような気持ちで、店頭の雑誌を眺めている。
 これまで何度も書いてきたように、この雑誌との関わりが、私の物書きとしての人生を確定した。
 この雑誌に関わるまで、私は自分の文章を、自分の表現として書いたことはなかった。
 あくまでもスポンサーの意向を体現するものとして、スポンサーの方だけを向いて書いてきた。
 それが自分の表現だと思ったことなどないし、どれだけ評価されようと、評価されまいと、なんの喜びも痛みもない、はぁそうですか、と言った感じ。
 スポンサーとの軋轢はあるにはあったが、それはスケジュールや予算の問題で、表現の内容を巡るものでは無かった。
 けれど、『ライフステーション』は違った(『CO・OPステーション』と表記すべきなのだろうが、私にとってはあくまでも『ライフステーション』なので、そう書かせていただく)。
 当時の角川書店の編集長から「お前の好きにやれ」とのお墨付きをもらい、灘神戸生協(現コープこうべ)の当時の統括からも「アンタの好きにやれ」と言われ、自分の表現として記事を書き、スポンサーである生協ともガチで渡り合った。
 誌面があまりにも私の記事ばかりになってはマズイと言うことで、筆名も四つ使い、とにかく書いた。
 書きまくった。
 二年間、とにかく書いた。
 で、ふと、虚しくなった。
 書いても書いても、書き流し。
 次の月が来て、新しい号が出れば、すべて忘れ去られる。
 雑誌の記事っていったい何なんだ、と。
 そんなとき、書き下ろしの本を書かないかとの話があった。
 かつて私が受験し、落ちた出版社からの依頼である。
 もちろん乗った。
 なにしろ「本」である。
 毎月毎月出ては消えて行く雑誌とは違う。
 きちんと残っていく「本」である。
 私は『ライフステーション』を捨て、「本」を取った。
 もちろんベストセラーになって印税生活に入る気満々である。
 もっとも、世の中そんなに甘くないことを知るのに半年もかからなかったが。
 なのに雑誌の世界に戻ることはまっぴら御免で、また「本」を出して売れなかったり、今度こそと「本」を出してまた売れなかったり、バカなことを繰り返し、失敗を重ねて今に至る。
 こうして、今、『CO・OPステーション』を開いて自分の舞台の記事をそこに見るとき、この何十年かの年月が甦り、甘酸っぱい思いがこみ上げる。
『神戸事件始末 瀧善三郎の最期』
 なんとか成功させたいものだ。
 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月14日

伊佐山紫文22

『エミーリア・ガロッティ ミス・サラ・サンプソン』
レッシング作 田邊玲子訳 岩波文庫
 浄瑠璃や歌舞伎に「歴史物」に対する「世話物」があるように、ドイツ劇にも「市民悲劇」というジャンルがある。
 アリストテレスの『詩学』によって悲劇の主人公は神話や歴史上の英雄のみとされ、その説に基づいてヨーロッパ劇は作られてきたのだが、啓蒙の光を経て「市民」もまた悲劇の主人公たり得るのものとされた。
 まさに「市民悲劇」の誕生である。
 レッシングのこの二つの戯曲は、その「市民悲劇」の草分けにして代表作、初演当時は大成功を収めたらしいが、今となっては、大時代的な設定のわざとらしさと長たらしいレトリックにより、まず上演は不可能だろうと思われる。
 まず、役者がこれだけの台詞を憶えられない。
 それに、長い。
 私が計算するところ、この二作品ともに、上演時間は三時間を超える。
 現代の観客にそれだけの忍耐を強いることは出来ない。
 なら、駄作かと言えば、そんなことはない。
 シェイクスピアやラシーヌにも引けを取らぬ、とまでは言わないが、それなりの筋運びと構成で読ませる脚本にはなっている。
 人間造形も類型に堕してはおらず、生き生きとしている。
 女性の「純潔」がまだ意味を持っていた時代の記録としても、面白く読める。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月14日

伊佐山紫文21

 昨日は「神戸事件」関連で、朝から夕方まで、関係する企業・団体を回ってきた。
 毎年の「瀧善三郎慰霊祭」みたいなものがやれないかと思って。
 けれど話をあちこちで聞くうち、慰霊の根幹に関わる部分にとんでもないねじれがあることがわかってきた。
 このままではどうしようもない。
 そもそも瀧善三郎の慰霊碑は切腹したお寺にあったのだが、それが空襲で焼け、ある企業の工場の敷地になり、その後、別のお寺に移され、今に至る。
 すべて数十年前の人々の善意によって、である。
 ところが、関係者の高齢化と、神戸市兵庫区の空洞化とで、その善意の根幹が揺らいでいる。
 最も問題となるであろう、法律的なことを言えば、慰霊碑の所有権と責任である。
 最初に作ったお寺はもはや亡い。
 引き継いだ企業は移転の費用を払って今のお寺に移した。
 今のお寺は期限付きで引き受けた。
 その期限が過ぎてもいまだに慰霊碑を引き受けている。
 ここでもし、慰霊碑が倒れ、怪我人が出た場合、だれがその責任を負うのか。
 これはもう「所有」と「占有」と「管理」と「責任」という、まるで司法試験の問題そのものの事態である。
 そのくらいシンプルでやっかいな問題が慰霊の根幹に横たわっているのだ。
 解決する手段は一つしかない。
 それは神戸市か国が、市有地か国有地に慰霊碑を移転することである。
 第一義的には、市長の碑文までよせ、慰霊碑の隣に建てている神戸市に責任があると思う。
 瀧善三郎の名誉回復をかねて、来年、150周年を記念して、事件の起こった三宮の、東遊園地公園に置くのが順当ではないか。
 広さの関係でそれが無理なら、神戸港を見下ろす六甲山でも良い。
 とにかく、このままではダメだ。
 慰霊碑の移転に向けて、少し動いてみようと思う。  
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月13日

伊佐山紫文20

 フランツ(シューベルト)とは中学以来の大親友で、あいつの曲20曲を選んで『源氏物語』の舞台を作ったこともある。
 これをグランフロント大阪のオシャレなレストランでやったのだから、今思えば暴虎馮河、フランツもさぞかし呆れていることだろう。
 なにせフランツの曲は素晴らしいから、演奏している間に飲食の注文が出来ない。
 当日の終演後はお店スタッフも感激してくれて「またお願いします」と手まで握って別れたのに、後日、数回分の企画書を出すと「料理の注文が全く出なかった。オペラはうちでは無理」と断られた。
 客が皆、聞き入ってしまい、飲食を忘れたのだろうという。
 当日の店の売り上げを計算した店長から、きつくおしかりを受けたのだと。
 半年先の企画まで立てて持ち込んだのに、出鼻をくじかれるとはこのことだ。
 確かにフランツの曲は素晴らしい。
 そこに日本語歌詞がきちんと乗れば、皆、飲食を忘れて聞き入ってしまう。
 というより、お客様のほとんどは、あれがフランツの曲だと気付かぬまま、私の歌詞に誰か現代の作曲家が曲をつけたものとして聴いていたらしい。
 ドイツ歌曲、あるいはリートなどと、高級なものとして扱われることの多いフランツの曲だけれど、実際には昭和歌謡の源流みたいなもので、きちんとした歌詞を付ければ歌謡曲と同等にまっすぐ心に響いてくる。
 もっとも、心に響きすぎて飲食を忘れ、注文が出なかったのが問題なのだが、それはそれ、演奏する場所を選べって話。
 さて、フランツは七百曲以上の歌曲を残してくれているし、ロベルト(シューマン)やフェリックス(メンデルスゾーン・バルトルディ)もいる。
 ガブリエル(フォーレ)も忘れてはいけない。
 私のような、有りものの音楽を使う劇作家にとって、自由に使える歌曲が数千曲もあるというのは、全くのパラダイスである。
 と、この間まで思っていたのだが、先日、女性作曲家たちと飲む機会があり「私たちの存在をどう思ってるのよ」とばかりに詰め寄られ、考えてみれば、フランツは大親友だけれど、フランツを使い続けるってことは、現代の作曲家の作曲の機会を奪っていることなのだと、ハタと気付いた。
 作曲家からみれば、現代の音楽劇にフランツやロベルトを使い続けるなど、ある意味、失礼な話なんだと。
 たとえば、シェークスピアやモリエールなどの古典しかやらない小屋があったとして、そこの支配人が、現代の劇作家に「シェークスピアとモリエールさえあれば、お前らなんか要らねぇんだよ」と言ってるようなもん。
 作曲家の皆さん、失礼しました。
 けれど、と言い訳をさせて貰えば、全くの新曲というのは、歌手の負担が大きいんです。
 今の夙川座では、歌手それぞれに自分の歌い慣れた曲を持ち寄ってもらい、それに新しい歌詞を付けている。
 何しろ歌詞は初演になるから、音楽が体に入っている曲でないと、少ない練習時間のなか、なかなか歌える状態にならない。
 そもそも音楽劇とは、絶対に諳譜で、その上、台詞も憶えなければならない。
 普通のコンサートとは歌手の負担が格段に違う。
 歌い慣れたフランツやガブリエルを使わざるを得ないという事情も、一方ではある。
 けれども、現代の作曲家たちとの関係も徐々に出来てきており、夙川座として100%オリジナルの音楽劇を上演する日も、そう遠くはないだろうという予感もしている。

 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月13日

伊佐山紫文19

 夙川座のラジオ出演が決まり、流す音源のマスターを探していたら、昔自主製作したCDがゴソッと出てきて感慨無量、しばし聞き入ってしまった。
 思えば軽い気持ちで始めた作詞だった。
 5年前、当時学生だった浅川(現(株)夙川座社長)の依頼で、プッチーニのアリア「私の優しいお父さん」に歌詞をつけたのが始まりだった。
 楽譜なんかない。
 頭の中で歌詞を作り、頭の中で歌い、パソコンに打ち込んで印刷。
 それを浅川が譜面に埋めていく。
 なんとも幼稚なことをやっていたものだ。
 今はもちろん、そんなことはしない。
 まずは楽譜ありきで、フレージングに合わせて歌詞をつけていく。
 このフレージングってやつがくせ者で、たとえば六つの八分音符が譜面に並んでいたとして、これを「2・2・2」で歌うのか、「3・3」で歌うのか、いわゆるアナリゼを厳密にやらないと、上手く歌える歌詞にはならない。
 昔の日本語歌詞が歌いにくいといわれるのは、このアナリゼが甘く、たとえば「3・3」として歌うべき個所に「私は行く」という歌詞がついていたりするからだ。
 つまり音楽としては「3・3」として流れるべきフレーズを、歌手は「私は・行く」という「4・2」の言葉で歌わされることになる。
 むりに「3・3」で歌うと「私・は行く」と不自然な聞こえになってしまう。
 有りものの歌に歌詞を付ける作業の8割以上はアナリゼだということが、作詞を通じてわかった。
 日本語固有の問題もわかってきた。
 昔の日本語オペラについての文献を読んでいると、母音がどうしたこうした、などと、極めて言語学に無知な、幼稚な議論が展開されていたりする。
 それも大御所が大まじめに。
 こんな程度の言語理解で和訳の歌詞を作っていれば、そりゃ歌いづらいし、聞こえないし、日本語訳のオペラが廃って当然だと思う。
 この人たちは、ドイツ語やイタリア語より、まずは日本語について勉強すべきだった。
 そもそもヨーロッパ諸語と日本語では、言語そのものの性質が全く違う。
 ヨーロッパ諸語、あるいは北京語、朝鮮語は「シラブル言語」と呼ばれ、言語の最小単位はシラブルである。
 対して日本語は「モーラ言語」であり、言語の最小単位は「モーラ」である。
 たとえば、俳句の「五七五」はシラブルではなく、「モーラ」の数である。
 だから、試みに「僕は今 新幹線に 乗っている」と詠んだとする。
 これはモーラを数えれば「五七五」だが、もしシラブルで数えれば「五四四」となる。
 シラブル言語では「ん」や「っ」が独立して数えられることはない。
 だから西洋音楽では「ん」や「っ」が一つの音譜に乗ることはないわけで、ここが日本歌曲との違いになってくる。
 これはまるで本居宣長と上田秋成の論争『呵苅葭(かかいか あしかりよし)』的な問題で、根は極めて深い。
 ともあれ、つまりは母音云々とはまったく違うところに問題があるわけで、そこを明晰に、クリアに理解していなければ、いくらドイツ語やイタリア語に詳しくても日本語歌詞は書けない。
 ところが書けないけれど書かなくてはならない時代があったわけで、その歪みの負担は全て歌手が負ってきた。
 だから、こんな苦労をしてまで日本語でやる必要はないと、原語主義が主流になったのも当然だと思う。
 それはヨーロッパでもアメリカでも同じだ。
 かつて『魔笛』はアメリカでは英語で歌われるのが常で、私の愛聴盤の一つであるワルター指揮メトの超名演は英語である。
 ただ、やはり不自然に聞こえる個所もあり、原語に戻ったのは当然かな、とは思う。
 なんにせよ、この5年、いろんなことを学んだ。
 それにしてもこの売れ残りCD、どうしたもんか。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月13日

伊佐山紫文18

 夜中に起き出して、焼酎を飲みながら古い自主製作CDを何枚も聴きまくった。
 懐かしい。
 たった数年前のことなのに、なんでこんなに懐かしいんだろう。
 これが文章なら、こんな気持ちにはならないと思う。
 数年前に書いた文章を読んでも、ああそうか、みたいなもので、懐かしさがこみ上げてくることはない、と思う。
 これが歌となると、まったく違う。
 歌詞を書いたときの気持ちまでが甦ってきて、何とも言えぬ、懐かしさに心が満ちる。
 これが音楽というものの力かと思う。
 流れていく、刹那の力。
 あれはたしか、ブラッドベリの短編集にあった話だった。
 ピカソが海岸に落書きをしている。
 それが物凄い傑作だ。
 ピカソは歩み去る。
 数分後にはその傑作は波に消される。
 どうする?
 砂浜の絵を写真に撮ったって、それは名画を撮った写真に過ぎない。
 短編の結論は忘れたけれど、設定は鮮やかに憶えている。
 結局、舞台の演技も、コンサートの音楽も、すべて刹那の力である。
 流れ去る。
 録音も録画も、その刹那を記録した、二次的なものに過ぎない。
 けれど、それは記憶のインデックスとして、録音した当時の全ての記憶を呼び覚ます。
 懐かしい、としか言えぬ、この感覚。
 ノスタルジイとエキゾチズムは兄弟だと言った折口信夫を思い出す。
 いい大人がこんなのに浸っちゃいけない。
 隠り世に連れて行かれる。
 毒消しに今朝はエルネスト・ブール指揮バーデン・バーデン響のモーツァルトを。
 透明な響きに心が洗われ、現世に戻って来た。
 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月10日

伊佐山紫文17

 鶏油(チーユ)を作る。
 ブランド鶏の鳥皮が安く売ってるときに爆買いし(今回はイカリスーパー)、軽く塩と梅酢をしてレンジにかけ、油が出てることを確認したらフライパン。
 じっくりと、自分から出た油で揚げていく。
 鳥皮はビールのつまみの煎餅になるし、鶏油は冷蔵庫で固めて色々使う。
 百数十円でけっこう楽しめる。
 けれど昨日は……
 フライパンで揚げてる途中で電話。
 それも、銀行の営業の。
 なかなか本筋に入らない。
「それほど急ぎの用件ではないのですが……」
 だったらこんな時間にかけてくるなよっ!
 電話を切り、慌ててフライパンへ。
 ふたを取ると、いきなりはぜて油が飛び散る!
 冷房のない我が家で、夏は上半身裸で過ごしている。
 そこに飛び散った油が!
 ひどかったのはやはり右手、中指は水ぶくれ寸前。
 ヒリヒリと痛むところに氷を当てると、脳が痺れるくらいの快感!
 フゥ~……
 これは何かのプレイか、みたいな。
 まあ、大事に至らなくて良かった。
 皆さん、火を使ってるときは台所から離れちゃダメです。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月09日

伊佐山紫文16

 迷ったが、今日を逃すと、もうそうそう機会もないだろうから、書き留めておく。
 昭和20年の8月9日、長崎の高校(今の活水女子大学)に通っていた伯母は、受験に来た妹を連れて市内を歩んでいた。
 突然の光と轟音と暴風。
 伯母は(と言っても二人とも伯母なのだが)妹を無事だった知人宅に預け、友達の消息を求めて爆心地へ入って行った。
「だから早く死んだんでしょうかね」と、伯母の葬儀で、同様に原爆に遭った仲間たちと話し合ったという。
 それが、伯母が亡くなったのは9年前、もう80をとうに過ぎて、それでも死んだのが早いほうだというのだから(当時伯母の妹、つまりもう一人の伯母も、90を目前に今も日田で一人元気に暮らしている)、生き残った被爆者が強いのか、放射線など寿命には関係ないのか。
 この伯母二人は、もちろん原爆に遭ったのだが、厳密には被爆者ではない。
 いわゆる「被爆者手帳」を持っていない。
 被爆者は子供が産めないという流言飛語を怖れて、当時、ほとんどの若い女性は「手帳」を申請しなかったという。
 9年前になくなった伯母は「芥川賞取りたい」が80過ぎても口癖で、新聞にも「永遠の文学少女」として記事が載ったことがある。
 けれど、その記事にも被爆の事実はなかった。
「原爆のことを書けば芥川賞くらい取れるんじゃない?」
 と聞いたことがある。
 けれど、ついぞ、長崎の原爆のことは語りも書きもしなかった。
 そこは伯母の被爆者としての節操というものだったのだろう。

  
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
8/10発行のコープこうべの雑誌「ステーション」

P38 コープインフォメイション

P41三上公也さんのおはようコラム

P95 今月楽しみたい!
に今回の音楽劇のことが掲載されています。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
8/10発行のコープこうべの雑誌「ステーション」

P38 コープインフォメイション

P41三上公也さんのおはようコラム

P95 今月楽しみたい!
に今回の音楽劇のことが掲載されています。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月09日

伊佐山紫文15

 10月の夙川座公演『恋の名残 新説・曽根崎心中』の新聞広告を出してみた。
 これまでの人生、人の広告を作ることはあっても、自分自身の企画したイベントの広告を出すのは初めてだ。
 ただし、広告代理店に丸投げではない。
 写真もこちらで選び、コピーも全て自分で書いた。
 どれほどの効果があるのか、それなりに読めるけれど、それでもドキドキだ。
 思えば、関西に来て三つ目の仕事がコピーライターだった。
 法律家の補助者→雑誌記者→コピーライターなんて、どんな軌跡かと思うが、これが数ヶ月の出来事なんだから、今考えてもダメな若者の典型だ。
 とにかく、今のこの現場が一生のものとは思えない。
 こなすだけ。
 乗り切るだけ。 
 コピーライターの仕事もそうだった。
 こなすだけ、乗り切るだけ。
 ただ、これが、こなせない、乗り切れない、そこの社長のカンに障った。
 入社して数ヶ月で、スポンサーは、そこの社長の頭越しに私に話を持って来るようになった。
 しかも、あれも、これも、と仕事がドンドン増えてきた。
 これがもう、社長には耐えられない。
 客観的に観れば、仕事が増えているのだから社長にとって悪い話であるはずがない。
 私が他から引き抜いてきたライターも数人入れて、会社はかつてない賑わいになった。
 けれど、人間は機械ではない。
 人間は嫉妬する動物だ。
 人は、自分のやってきた仕事が大きければ大きいほど、新しい才能に嫉妬するものだ。
 そもそもその社長は関西でのコピーライター(当初は広告文案屋と呼ばれた)の草分けで、シングルマザーながら鉛筆一本で家を建てたと言われ、スポンサーも今のパナソニックや大同生命など関西の超一流が並び、仲間内での尊敬も集めていた。
 私がやった仕事も小林製薬のネーミングをはじめ大同生命の新商品のコピーなど、それなりにメジャーなものだった。
 けれど、社長が嫉妬しだすと、もうだめだ。
 と言うより、この嫉妬には根拠がある。
 コピーライターが社長の頭越しにスポンサーと仕事をし始めると、それは独立の兆しなのだ。
 スポンサーをごっそりと引き抜いて、コピーライターが独立!
 これは会社としては最悪の悪夢である。
 そして、しかも、かつてその社長自身、そのようにして独立を果たしていた。
 かつて人に飲ませた煮え湯を自分が飲んでたまるものか!
 こうして陰湿なイジメが始まった。
 私はそんなのに耐える根性もないし、そこでやり遂げるべき仕事もなかったから、あっさりと辞めた。
 世はバブル突入前夜の熱に浮かれ、25の私もまたそれから転職を繰り返すことになるのだった。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月08日

伊佐山紫文14

『H29年度 大阪観光局「会員の集い」』に行ってきた。
 台風がまさに接近という状況の中、けっこうたくさんの人が集まっていて、インバウンドに対する関心の高さを伺わせた。
 そりゃそうだ。
 こんだけ国内がデフレデフレで新しい需用を見込めないなか、大阪への観光客数の伸びは凄まじいものがある。
 細かな数字は資料にゆずるとして、体感的に、ミナミだけではなく、キタでも外国人、特に中華圏の観光客数は増えていると思う。
 これをいかにして自分たちの商売に取り込んでいくか。
 昨日の交流会の熱気、真剣さは本物だと思う。
 なにせ、会がお開きになっても、立食の食事も酒もかなり残っていた。
 皆、商機を求めて、食事どころではなかったのだろう。
 講演は奥田政行氏の『食から始まる地域づくり』だったのだが。
「それでもな」と、これは、交流会で、ある職員の方の本音がポロリと漏れた瞬間だった。
「インバウンドなんて、それほどのもんかいな。少々騒ぎ過ぎやで」
 それで、私が、
「日本が本当に内需を掘り起こしたら、インバウンドに頼る必要もないんですけどね」
 と返すと、さすがに大阪です。
「そうしたら、僕らの仕事がなくなるんやけどな」
 オチがちゃんとついてます。
 で、昨日のいちばんの成果は、同業他社といえるような業種の皆さんと名刺交換出来たこと。
 外国人観光客にとって、ウチのようなクラシック音楽劇で一時間は辛いかも知れないが、殺陣、忍者ショー、和楽などと組み合わせれば、充分満足のいく、一つの舞台を作れるのではないか。
 また、会では、ハコ(劇場)関係、旅行代理店の方とも話をすることも出来、このような人間関係をしっかりと組み合わせて行けば、恒常的な舞台を用意できるのではないか。
 そういう希望を抱いた。
 昨夜、浅川社長が獲得した名刺は32枚、有意義な会だったと思う。 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月07日

伊佐山紫文13

 台風が近づいている。
 私は九州で生まれ育ったから、台風という現象に対して、どこか血湧き肉躍るものを感じてしまう。
 アブナイ逃げろ、というより、強敵を前にした武者震いと言った感じか。
 実際、子供の頃は、台風が来ていても平気で釣りに行った。
 暴風雨の中、竿を振り続け、そしてふと、雨が止み、風が止み、青空が広がる。
 台風の目に入ったのである。
 川は凪ぎ、一気にアタリが来始める。
 次の暴風雨まで、釣りに釣る。
 で、もう水位も上がってきて危険なので帰る。
 こんなことを繰り返して、よく生きていられたものだ。
 あれは中三の夏休み前だったか、学校行事のキャンプがあり、小雨決行だというので、私はキャンプの用意をしてリュックを背負い、集合時間に登校した。
 ところが、下駄箱のところに私が入って行くや、一人の女の子が私を指さして「キャ~ッ」と叫び声を揚げ、その声は教室に広がり、廊下を走り、皆、授業を放り出して、集まってきた。
「なんだよ、中止かよ」
 という私の声に、温かい拍手が湧いた。
 私の学年の誰一人、私以外の誰一人、キャンプが行われるとは思わなかったのだ。
 たかが台風ごとき、私にとっては「小雨」であり、当然「決行」すべきなのだった。
 私はその朝、決然とリュックを背負い、傘をさしても無駄な暴風雨の中、ずぶ濡れになりながら登校した。
 授業を破壊された先生方も、あまりのことに無言だった。
 学年イチの不良も、
「今回ばかりはアイツを見直した」と感嘆していたという。
 暴風雨の中、こんな子を送り出した親も親、まあ、よく、これまで生きて来られたものだ。
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
9/16土曜 15時開演(14時半開場)
JR住吉駅が最寄りのコープこうべ生活文化センターホールにて。
クラシック音楽劇「神戸事件始末 瀧善三郎の最期」
お一人様3240円(前売り2700円)

問い合わせ、お申し込みは、夙川座まで
0798-55-8297
shukugawaza@gmail.com



写真は、瀧善三郎さんが西洋列強の前で切腹した時の図
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月05日

伊佐山紫文12

 もう7、8年前、知人の娘さん(あの時小学校二年生だったか)と、妖怪と幽霊の違いについて議論したことがある。
 そこにいた私以外の大人たちは「何をバカバカしいことを、そんな真剣に」という態度だったのだが、私と娘さんとは本気で真面目に話し合っていたのである。
 結局、娘さんが言いたかったのは、妖怪はヒト以外の、動物学によって認識さるべき生き物であるのに対し、幽霊はヒトのなれの果てである、と。
 妖怪は身体を持った物理的存在であるのに対し、幽霊は身体を亡くした精神的存在である、と。
 自分一人でたどり着いた、この結論を、娘さんは拙い語彙で一生懸命伝えようとするのだが、おそらく私以外の大人は、その時まで、誰一人まともに聞いてはくれなかったのだろう。
 バス停まで送っていき、バスに乗り込む、その別れ際、娘さんは泣き出した。
 また会いたい、また会おうね、と。
 結局、まだ会えてはいないのだけれど、利発な子供はどこでもそれなりに不幸なのだなと、今どうしているのかなとは思っている。
 で、神戸大丸で開かれている、
『追悼水木しげる ゲゲゲの人生展』
 に行ってきた。
 水木しげる先生と言えば『ゲゲゲの鬼太郎』などが代表作に挙げられるのだろうが、私にとっては何と言っても、種々の妖怪図鑑だった。
 版を重ねているからいつのものかは分からないが、父親の買ってきた大人の妖怪図鑑は何度も何度も、数え切れないほどページを開いた。
 昆虫図鑑や魚類図鑑と同じくらい。
 私にとっても妖怪は、まさに動物学によって認識さるべき何かだった。
 ちなみに水木しげる先生のペンネーム「水木」は、神戸の「水木通」に由来する。
 ここで若い頃「水木荘」を営んでいたことから。
 こういうことも、神戸の人はもっと大事にして欲しいなぁ。

 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月05日

伊佐山紫文11

 母親の大腸ガンが見つかったのが15年前、私が40になった年だった。
 その前から両親揃って入退院を繰り返しており、私はおおむね35歳くらいから、母親が亡くなる45歳までは遠距離介護に追われていた。
 なにしろどちらかが施設に入ったかと思えばどちらかが入院、そのたびに帰郷してハンコをつかねばならず、退院して施設に入るにはまたハンコ、週に何度も西宮と日田の往復である。
 仕事も何もあったもんじゃない。
 幸い、母親の年金があったので、経済的には破綻せずに済んだ。
 もしこれが、母親が先に逝き、父親が残されていたら大変だった。
 父親は将来必ず訪れるであろう明るい社会主義社会を信じていたから、現在の自民党政権に奉仕するような年金など払っておらず、無年金だった。
 母親は将来にどんな展望を持っていたかは知らないが「アンタたちの世話にはならん」が口癖で、そのくせ日に数箱のタバコを吸い、かならずウイスキーのボトルを空にして、大腸ガンと肺ガンを併発した。
 こんな二人に、どんな明るい老後が待っているのか。
 というより、こんな二人が親としてまともな子育てが出来ようとは思えない。
 それでも関西に住む息子は毎週のように帰って来てたし「あの二人は幸せな最期じゃったバイ」というのが周囲の見方だという。
 ま、だったら良いか、と思う。
 で、母が亡くなる直前、私は45歳(妻は45歳11ヵ月、超のつく高齢出産)で息子を授かって、この10年、子育てに追われてきた。
 3歳になっても一言も喋らぬ息子をつれて病院を巡り、やれ手術だ、失敗だ、やり直しだと振り回され、仕事も何もあったもんじゃない。
 世には、人生の意味を見失う「フォーティーズ・クライシス(中年の危機)」なんてものがあるらしいが、目の前の問題を片付けるのに精一杯で、人生も何もあったもんじゃないというのが、この20年だった。
 さて、両親の介護も終わり、子育ても一段落した今、あらためて「人生」なんてものを考えなければならない時期なのかもしれない。
 思えば、10数年前、それぞれ倒れて別々の病院に入院していた両親を、知人が引き会わせてくれたことがある。
 両親共に認知症がひどく、主治医も「どんなケミストリーが起きるか、想像も出来ない」と難色を示していたけれど、これが最後になるかも知れないと、知人が押し切った。
 母親の病室で、二人きりで一時間ほど過ごし、静かに別れたという。
 まるでその日の夕食で会えるかのように。
 そしてこれが二人で会う最後になった。
 人生なんてそんなものかも知れないし、だからこそ「一期一会」なんて言葉があるのだろう。
 だから、とりあえず今、出来る仕事をやり続けよう。
 人生、目の前の仕事が出来るということ以上の幸福はそうないのだから。 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月03日

伊佐山紫文10

 最近、営業で大阪や神戸を歩き回りながら、かつての知人の消息に触れることが多くなった。
 青年実業家と結婚して職場を去った新聞記者が嘱託で復帰していたり、南米のゲリラと結婚した知的サラブレッドの女性が今オーストラリアで牧場を経営していたり。
 あるいは出世頭と思われていた男が意外に早く職を辞していたり、様々だ。
 人生それぞれ、と言ってしまえばそれまでなんだろうが、私の知人らの場合、あまりにそれぞれすぎて、20代から30代前半にかけての人脈の特殊さ、不毛さに、今となっては呆れてしまう。
 なにせ、関係を作っても、その人はすぐに職場や日本を去ってしまうから、関係が編み目となっていかない。
 それでもまた関係を構築し直し、編み目も出来て、青年期に、いくつか、業績と呼べるような仕事はしたのだけれど、問題は、その仕事を私自身が今現在全く評価しておらず、むしろ人間関係まるごと含めて全否定しているということだ。 
 と言うのも、人は青年から中年になり、問題意識も変わってくるべきだと思うのだが、多くの人は、特に政治的に動いているような人々は、変わることを潔しとせず、むしろ変節・転向としてネガティブに捉えようとする。
 そういうタイプの知人に再会すると、まるで冷凍保存されていた青年時代に投げ込まれたようで、奇妙な居心地の悪さを感じ、この人とはもう二度と仕事をすることはないな、と思ってしまう。
 それでも、若い頃みたいに、これで人間関係を狭めてしまったな、と後悔することはない。
 仕方のないことなのだ。
 変わる人と、変わらない人がいる。
 変わったのはこちらなんだし、であれば、その変わった自分で、今の自分に合う人間関係を構築していくほかはない。
 と、そこでふと、職場を去り、日本を去った知人たちのことを思う。
 彼等、彼女等も、きっと、あの時点で「変わった」のだ、と。
 そして私はあの時点では「変わらなかった」。
 人生それぞれとは言うが、結局は「変わる」「変わらない」の差に集約されるのではないか。
 私の若い頃の知人たちは次々と「変わり」、私のもとを離れていった。
 それは実は関係の希薄化などではなく、数十年後の豊穣をもたらすための旅立ちだったと思いたい。
 遠く豊かな再会のための、しばしの別れ。
 地べたを這いずるような営業をしながら、そう思うことにしたい。
 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
2017年08月03日

伊佐山紫文9

 週明けは忙しい。
 月曜は関西スーパー(以下「関スパ」)の特売日で、全品(酒などを除く)10%オフになる。
 これに合わせて、一週間分の出汁をとる。
 根昆布、椎茸、イリコはそれぞれ別に一晩水に浸しておき、合わせて、圧力鍋にかける。
 これがだいたい二リットルの、一週間分の魚介系出汁になる。
 出しガラは醤油と梅酢とで煮て、ゴマ油で煎り、弁当のおかずにする。
 それから動物系スープ。
 関スパで買ってきた豚骨と鶏ガラは、まず30分ほど圧力鍋にかける。
 圧力が退いたら、丁寧に油を取る。
 まずはクシャクシャにしたラップで水面を撫でると、油はあらかた付いてくる。
 あとはあく取りシートなどで丁寧に。
 ここに生姜、そして冷凍しておいた一週間分の野菜クズを加え、また圧力鍋で30分。
 なぜ最初から野菜を入れないのかと言えば、野菜の、特にビタミンAなどは油に溶けやすいから。
 せっかくのビタミンを油と一緒に取り除いてはもったいない。
 これで一週間分の豚骨・鶏ガラ・野菜の、動物系スープが出来上がる。
 ペットボトルで冷蔵庫に入れるとプルプルのゼリー状になる。
 魚介系と合わせれば店にも負けないラーメンスープである。
 で、週明けはたいてい味噌が切れる。
 ウチは丹波系の黒豆と京都の麹で西京味噌を作っている。
 塩分が薄いから一、二週間で食べきる。
 そもそも熟成しない。
 ヨーグルトメーカーで一晩で出来上がったものをハンドミキサーで擂り潰して出来上がりである。
 毎朝の味噌汁はこれで。
 私は朝は抜くことにしているから、味噌汁の味は知らん。
 妻も子も残さず食べているから不味くはないのだろう。
 これと先ほどのスープで作る味噌ラーメンは絶品であるが。

 
 
Posted by notebook │Comments(0)
このBlogのトップへ
プロフィール
notebook
notebook
学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

< 2017年08>
S M T W T F S
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
カテゴリ
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人