「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2020年02月29日

伊佐山紫文526

息子がちょっと早い卒業メッセージを持って帰ってきた。
 見開きで、飛び出すイラストの下に、
 
 お母さんへ
よるおそくまで金をかせいでくれてありがとう。

 お父さんへ
 これまで手をぬかずにそだててくれてありがとう。
 これからもよろしく。

 やれやれ。
 父母逆転してもそれなりに育ってくれてありがとう!
2020年02月28日

伊佐山紫文525

来週から学校が休みになるかも知れぬというニュースで、さぞや喜ぶかと思っていた息子は、
「こんな形で唐突に小学校生活が終わりになるなんて、嫌だ」
 などと、しおらしいことを言う。
 それにしても「唐突」!
 お前はチャーリイか!
 言わずと知れた『アルジャーノンに花束を』の最後の台詞である。
 今は違う訳になっているのかも知れないが、私たちの頃(40年位前)は、
「唐突ですが、アルジャーノンの墓に花束を捧げてください」
 と、そんな台詞だったと思う。
 これには泣いた、本当に泣いた。
「唐突」という単語をダニエル・キイスのこの小説で知った人は多いと思う。
 それはそれ、安倍首相の「要請」はまさに「唐突」で、一寸先の読めぬ政治というものの闇の深さを改めて思い知った。
 この「要請」は極めて政治的なものであり、科学的裏付けは一切無いと断言する。
 一つには、消費税増税による消費の縮小を誤魔化すこと。
 これで、増税して税収が減るという、アホらしい現実から目をそらすことが出来る。
 すべてコロナのせいにできる。
 二つには「無策」という批判をかわせる。
 実際には内閣府には権限のない休校措置を「要請」という形で出すことで、何かやっているんだという姿を見せることが出来る。
 三つには……と幾つでも並べていけるのだが、もうこれだけで充分だろう。
 とにかくコロナから子供たちを守ると言うのなら、それ以上の危険も除去すべきだ。
 まずは公道での、ド素人による自動車の運転を禁止して欲しい。
 自動車は、扱いを間違えば確実に死に至る殺人兵器である。
 こんなものが子供たちの通う道を、ド素人の運転ですっ飛ばしているのである。
 公道ではない、遙かに安全な軌道の上を走る電車・汽車はきちんと訓練を受けたプロ中のプロが運転しているのに、これはおかしくはないか?
 減ったとは言え、交通事故で、昨年は三千人以上の方が亡くなり、その数倍する方々が生涯にわたる障害を負っているのだ。
 もし本当に子供たちの安全を思うなら、運転免許制度など廃止し、原則、プロ中のプロにしか自動車を運転させるべきではない。
 私も、コロナなど何にも心配していないが、通学中の交通事故は心底怖い。
 まさに「唐突」に命を奪うのは交通事故である。
 それにしても、今回のコロナ騒ぎで分かったことがある。
 息子が案外、学校という場を好きだったということ。
「先生にちゃんとお別れも言えずに中学に行くのは嫌だな」
 などと言う息子に、ちょっとグッときてしまった。
2020年02月27日

伊佐山紫文524

息子が数学の入り口で四苦八苦している。
 そもそも、-(-2)が2になることが理解できない。
 そりゃそうだ。
 人類がマイナスという数を発見(?)するまでに十数万年を要したのだ。
 新石器時代には必要なかった概念である。
 だから、一個一個解きほぐして教えていく。
 まず数の数え方。
 普通は1から数える。
 1、2、3、4……と。
 ところが定規を見てみると、1から始まってはいない。
 そこには当たり前のように「0」がある。
 つまり「1」とは始まりではなく、数直線上で0から1だけ進んだ位置のことだったのだ。
 0が始まりなのだ。
 それでは始まり以前は?
 これがマイナス。
 プラスを右方向への移動とするなら、マイナスは左方向への移動である。
 -2+(-2)が-4になるのは、移動方向と距離から明らかだ。
 それではなぜ-(-2)が2になるのか。
 マイナスとマイナスを書けたらプラスになるんだよ、と頭ごなしに教えるのも一つの手段だろうし、普通の秀才にはそれで良いのだと思う。
 ただ、息子のように徹底して考え抜く子にはこれは通じない。
 泣きながら、なんで? と訴えてくる。
 で、一個ずつ解きほぐす。
 -(-2)を丁寧に書けば、
 -1×(-2)
 となる。
 つまり、ここにはマイナス同志のかけ算が隠れているということだ。
 マイナス同志のかけ算で何を求めているのか。
 かつて数学は諸学の女王と言われた意味がここにある。
 なぜ、王様じゃないのか。
 それは、問題解決のための手段であり、目的ではないからだ。
 解決すべき問題を発見することこそが王であり、解決のための手段たる数学は一段下がる女王でしかない。
 もちろん「かつては」の話だが。
 それではマイナス同志のかけ算とは、どんな問題解決の手段なのか。
 少々乱暴だが、簡単に言えば、時間を巻き戻すことである。

 お風呂の水を抜くことを考える。
 1分に2センチ水位が下がる。
 それでは一分前、水位は今よりどれだけ上だったか。
 一分前だから(-1)、水位は一分ごとに2センチ下がる、だから(-2)。
 これを掛け合わせる。
 -1×(-2)=+2
 今より2センチ上でした。
 これで理解した息子はガシュガシュ問題を解き始めた。
 やれやれ。
2020年02月26日

伊佐山紫文523

コロナの件でイベントの中止が相次いでいる。
 バカバカしいとしか言い様がない。
 福島原発の放射能騒ぎと同等の、非科学的非知性的な愚行である。
 たとえばインフルエンザが流行ってるからと、イベントを中止にしますかね。
 ノロウイルスが蔓延してるからって学校給食をやめたりしますかね。
 コロナを巡る騒動は、すべて感情的感覚的な、理性(数値化)を欠いたもので、つまり、人間として当然なことである。
 人間は、他人の話題ならば、結婚よりも離婚を好み、平和よりも戦争を好み、健康よりも病気を好む。
 そんな人間の本性を、コロナ騒ぎはむき出しにしただけのこと。
 ロシアの古い小噺にこんなものがある。
 貧しい、貧しい、隣り合う二つの農家がありました。
 貧しいながらも、ヨハンの家は山羊を飼っておりました。
 フョードルはそれをうらやんでおりました。
 ある日、日頃の信心が認められ、フョードルの下に天使が降りて参りました。
「なんでも好きなことを言うがいい。かなえてやろう」
 フョードルは言いました。
「ヨハンの家の山羊を殺してください」
2020年02月22日

伊佐山紫文522

息子の中学校の制服が届いた。
 試着姿を見て感無量、よくぞ育った。
 とにかく小学生でドロップアウトしなかっただけで百点満点。
 人は如何にして世のしきたりというものを学ぶのか、ダーウィンを通過した私はカントのように驚嘆したりはしないが、それでも個別のことがら、我が子の成長には驚嘆する。
 昨日は学校の「親子ゲーム大会」とやらに参加した。
 そのゲームの一つ「おいかけ玉入れ」なるもの。
 先生がかごを背負い、そのかごをめがけて生徒が玉を投げ入れるというものだ。
 先生二人は逃げる逃げる、百人近い生徒たちが追う追う。
 最後は転んだ先生を立たせないように取り囲み、リンチ状態。
 それに対して息子は、
「先生を先生と思ってない」
 と憤る。
 リスペクトが足りん、というわけだ。
 また「ペーパータグ」というゲームでは、親チームの卑怯な親を、ほとんどは傍観する生徒たちをよそに、最後まで数人の仲間と追い回していた。
 こんな積極的に走り回る姿、初めて見た。
 後で聞くと、
「あれは許せん」
 と憤ってみせる。
 本当に、カントではないが、天体の法則と同レベルで道徳律が内面に根付いている。
 私が小六の頃は、おそらくではあるが、先生を取り囲むでもなく、憤るでもなく、単なる傍観者だったろう。
 卑怯な親を追撃することもなく、と言うより、こんなゲームに熱くなることをさげすんでいただろう。
 本当に、よく育ったよ。
 今日は大阪に出るはずが、雨。
 家でゲーム三昧するそうで、まあ、それもよし。
 ゲーム漬けでも子は育つ。
 その実例になってくれ。
2020年02月21日

伊佐山紫文521

「逆ニート」
 とは、我が息子がAIを評してつけたネーミングである。
 母親が「AIは消費しないからね」と言ったのに続けて、
「だったら、逆ニートだね」と。
 確かに、ニートは消費するばかりで生産活動に携わらない。
 なにせ、
「not in education, employment or training(教育、就労、訓練に就いていない)」
 つまり何の価値も生んでいない。
 ただ、生きるために消費しているばかりなのがニートである。
 だから、一見すれば、AIの方が価値があるように見える。
 何せ、消費するのは電力だけで、ひたすら働くばかり。
 食ってばかりのニートとは雲泥の差、に見える。
 ところが、これを大きな社会の中で観るとどうなるか。
 ある会計事務所がAIを導入して人員を削減したとしよう。
 パートのおばちゃん二人をクビにした。
 クビというか、もう年金も入るから辞めたいと常々言っていた二人である。
 誰も傷つかない合理化である。
 で、何が起こったか。
 この二人がお昼に食べていた出前のうどん二食の需要がなくなった。
 なにせ、AIはうどんなど食わん。
 おばちゃんたちは事務所を辞めて家で食べているのだろうが、家で食うものは、どれだけ手をかけても原材料以上の価値は生まない。
 自家消費は、経済価値としてはゼロである。
 しかもお金の出所が年金となったら、社会全体から見れば、まさに消費するだけのニートに他ならない。
 AIが労働者に置き換わり、労働者がニートと化したのだから、まさにAIは「逆ニート」である。
 さすが、ネーミングの神様と言われた(いつ?)私の息子だけのことはある。
 これは単純極まる一例だが、同じようなことが、これから全世界的規模で起きてくる。
 今でこそ、人手が足りない、だから外国人労働者、などと、呑気なことを言っているが、将来的には消費の落ち込み、つまりは総需要の減少が必ず起きてくる。
 何せ、AIは消費しない、のである。
 消費せずにひたすら価値を生み続けるAIの行き着く果ては一億総ニートかもしれない。
 それはそれで良い世の中かもしれないが、人間は「生きがい」の動物だと言うことを忘れてはならない。
 一部の、AIを操る「生きがい」に満ちたエリートと、ただ食わしてもらってるだけの「生きがい」を無くした大衆「ニート」。
 そんな世の中、嫌だなぁ。
 古い人間ですから。
2020年02月19日

伊佐山紫文520

上方うた芝居『レイチェル・カーソン やめなはれDDT!』
 の台本が脱稿した。
 と言っても第一校で、これを叩き台にして磨いていくのだが、それはそれ。
 一昨日と昨日で一気に書き上げたので、今朝は肩こりが酷く、キーボードを叩く指先も若干しびれ、もう歳なんだなと実感する。
 それでも、この芝居は、今年58になる男が、この歳で、この時代でなければ書けなかった種類のものだ。
 シェイクスピアは52歳で亡くなったし、モリエールは51歳、しかも、環境問題のない時代のお前らには書けなかった芝居だよ、ざまあみろ。
 とか、悔し紛れに言ってみますがね。
 何にせよ、誰も観たことのない「上方うた芝居」になることは請け合います。
 乞うご期待!
2020年02月16日

伊佐山紫文519

また芸能人の薬物騒ぎで、こういうとき、マスコミでは当人の依存とか自制心の無さが問題にされるのだが、かつての当事者、というか、ある意味「被害者」としての経験から言えば、少し違うと思う。
 薬物依存者は「お得意様」なんですよ、その筋の人たちからすれば。
 経験のない常人への新規開拓は通報されたりの危険と隣り合わせだけれど、依存者は違う。
 慎重に近づけば必ず買ってくれる安全な「お得意様」なのである。
 たとえば、あなたがもし、良心のカケラもない酒屋だとしよう。
 あなたは、アルコール依存の治療を終えて帰ってきた断酒中の中年男性と、酒を飲んだこともない15歳の少女と、どちらに営業をかけるだろうか。
 15歳の女の子に勧めりゃ、ヘタしたら逮捕されかねない。
 安全なのは、やっぱり、中年のアル中でしょう。
 一回は断られるかも知れないが、辛抱強く営業すれば必ず落ちる。
 そしてそれ以後は滝のように飲んでくれる。
 こんなうまい商売はない。
 もちろん、普通の酒屋は良心があるからこんなことはしないが、薬物の売人たちは最初から良心を欠いている連中だ。
 つまり、薬物依存をマスコミで報道するということは、良心を欠いた売人たちの安全な顧客リストにこの人を載せなさいと言っているようなものだ。
 自制心が無いとは、つまり次回も堕ちやすいと教えてやっているのと同じなのである。
 マスコミにこそ自制を促したい。
 もちろん、無理ですけどね。
2020年02月10日

伊佐山紫文517

11月公演『レイチェル・カーソン やめなはれDDT!』(仮)の新曲が上がって来て、昨日スタジオで、浅川座長と確認した。
 聞いてみれば、どれも山田さん会心の作、もう、全曲、任せようということになった。
 企画段階では、舞台がアメリカなだけに、フォスターの歌曲をベースにしようとて、権利関係の確認にJASRACにまで出向いたものだった。
 それで使用料を払う覚悟もし、フォスターやアメリカ民謡の楽譜も揃え、準備万端、さあ、曲選び、となるはずが、何か気乗りしないものがあった。
 私自身、中学生だったころから環境問題に関心を持ち、高校では科学部で日田市内の水質を調べたりもした。
 大学での専攻は生態学、まさにエコロジーである。
 サークルは環境問題研究会で農薬の空中散布に反対し、卒業してフリーライターになってからの最初の仕事は環境問題だった。
 目指す立ち位置は、もちろん、レイチェル・カーソンその人で『沈黙の春』のような本を一冊書ければ本望だとさえ思っていた。。
 そのレイチェル・カーソンを板に乗せるのである。
 有り物の替え歌ではあんまりなのではないか、という思いがどこかにあった。
 で、せめて、中核を成す曲だけはオリジナルで、と、山田さんに相談したのが昨年の暮れ、快諾していただいて、それが上がって来たというわけだ。
 スタジオで一音一音確かめながら、浅川座長と二人で盛り上がり、もう、フォスターなんて言うとる場合やない、と、その場で山田さんに全曲の作曲を依頼して快諾を得た。
 考えてみれば、全曲オリジナルのうた芝居は、夙川座では初めての試みである。
 おととし、日田でやった『島ひきおに』は、全曲オリジナルではあったけれど、原作付きだった。
 今回は一からすべて作る。
 面白く、泣けて、ためになる、
上方うた芝居『レイチェル・カーソン やめなはれDDT!』(仮)
 今週より台本・歌詞の制作に入ります。
2020年02月10日

伊佐山紫文517

昨日は雪がちらついていた。
 今が今シーズンの寒さの底なのだろう、手袋をしないと自転車に乗るのも厳しくなってきた。
 と言えるほどに、実は暖かい。
 50年前、小学生だった頃の冬はこんなもんじゃなかった。
 氷、氷、雪、雪、しもやけ……
 子供で活動的だったというのもあるだろうが、それにしても、どうしようもなく寒かった。
 もちろん、九州での話である。
 九州でも普通に雪が積もった。
 雪合戦も普通にやった。
 ジェンダー云々と言う、うるさがたはまだいない時代、合戦の最前線に立つ男子の後ろで、女子はせっせと雪玉を作っていた。
 まさに銃後、総力戦で、男女とも、しもやけは勲章だった。
 息子にそういう話をすると、
「いいなぁ、ここでも雪が積もらないかなぁ」
 などと、呑気なことを言う。
 呑気なのは実は良いことで、もし気候が50年前に戻ったら、どれほどの土地が不毛化することか。
 温暖化によって農地に出来るようになった土地、あるいは凍らない港、そういう恩恵については、今日、あまり語られない。
 実は人類にとって、温暖化の反対、寒冷化ほど恐ろしいものはなかった。
 地球が寒冷化したとき人類に何が起きたのか、雄弁に物語るのがブリューゲルの恐ろしい絵の数々である。
 日本では餓鬼絵か。
 最近、飢饉とか飢餓とかのニュースをあまり聞かなくなったことと、気候温暖化は、おそらく、関連している。
 温暖化によって耕作可能な土地が増えた、とか、あるいは二酸化炭素濃度が上がって単位面積当たりの収量が増えた、とか。
 これをきちんと研究しようにも、おそらく、予算は下りないだろうが。
 まあ、何にしても、呑気でいられることほど良いことはない。
2020年02月04日

伊佐山紫文516

たった一回、小学校の卒業式に着るためだけにスーツを買うのもどうかと思うが、これがもう、慣例となっているなら仕方ない。
 何より、妙なものを着てきたら女子たちが許さない、らしい。
 自分の写る卒業写真にダサい格好の男子が入り込んでいるのが許せない、らしい。
 それより、なにより、個人的に撮る、気に入った男子とのツーショット写真で、相手がダサい格好だと困る、と言うのもあるらしい。
 おそらく、あとで女子同士、見せ合うときの見栄なんだろう。
 まだ朴念仁たる男子にとっては迷惑この上ない話なのだが、仕方なく、母親と一緒に近所のイオンに連れて行った。
 ところが、普段は子供の格好に何の関心もないような母親が豹変、どれも似たようなスーツをとっかえひっかえ、あーでもない、こーでもないとやり始めた。
 ああ、ここにも女子がいる!
 書店に避難したりして、暇を潰し、出来上がったスーツ姿を見れば、おお、これは!
 馬子にも衣装とはよく言った!
 これから世間と戦っていくであろう、その戦闘服が実によくお似合いですわ。 
 俺が言うのもなんだが、とにかく、世間では見た目が9割だから。
 ただ一度の卒業式だが、卒業写真は一生残る。
 戦闘開始の記念として、スーツ姿も悪くない。
2020年02月02日

伊佐山紫文515

息子と大阪に出て、ゲーミングパソコンの現状をリサーチしてきた。
 と言うのも、2年前の最新型がもうすでに悲鳴を上げ始めており、近々の買い換えも視野に入れなければならないと思われたから。
 それに、直接ノートパソコンのキーボードをぶったたくのも良くない。
 おそらく専用のキーボードもあるはずだからと、それも調べに。
 で、ぶったまげた。
 2年前、私の使っていたパソコンをママチャリとするなら、息子の新型はジェット機だと言われていた。
 その比喩で言うなら、最新型はロケット並みである。
 もう二世代、速度が上がっている。
 息子のパソコンは、もはや最新のゲームをするための「最低限」の性能しか持っていない。
 ゲーム制作者としては最高級の性能で最高のプレイをさせたいだろうから、最高速度のパソコンを要求するのは当然だろう。
 これは致し方ない。
 で、パソコンの値段を観てまたぶったまげた。
 軽く五十万円を超えている。
 これは、なんですか?
 まあ、参考までと言うことで、キーボードを観てみた。
 これもまた、あの……一桁違いますよ。
 うちで使ってるキーボード、980円なんですけど……
 数万円するキーボードを触ってみて、息子が一言、
「気持ちいい」
 確かに!
 これだと文章もスラスラと書けそうだ。
 結局、息をのんで、ラーメン食って帰ってきた。
 と言うか、その帰りにdocomoによって、機種変更。
 またアップルに帰ってきました。
 あれはもう、35年以上前、appleⅡが私のパソコン人生のはじまりだった。
 二人のスティーブ、憧れました。
 幻滅するのも早かったけど。
 今回、息子のEラーニングのためにiPodを導入。
 数時間かけて設定を済ませ、帰ってきたのは夜の9時。
 世の中、便利になったんだか、どうなんだか。
2020年02月01日

伊佐山紫文514

教育講演会に行ってきた。
 まあ、時間の無駄。
 とにかく言うことが古い。
 ゲームやスマホを悪と決めつけ、とにかく時間制限。
 あのね、普通の子は制限しなくても一時間もやってれば飽きる。
 もし二時間以上やっていられるなら、それは一つの才能なんですよ。
 だとしたら必要なのは、時間制限ではなく、才能を適切に伸ばす方法論でしょう。
 たとえばダンスの好きな子がいて、一日中踊っていたとする。
 ここで必要なのは時間制限ですか?
 違うでしょう。
 必要なのは適切なコーチです。
 よほどの天才ならビデオを観るだけでダンサーになれるかも知れないが、まずは誰かに習わないと。
 こんなこと、少し考えれば分かりそうなものじゃないか。
 ただ、ゲームやスマホが他の才能と違うのは、適切なコーチなるものがいない。
 それは問題だとは思う。
 私の子供時代(昭和四〇年代)のことを考えると、まず、マンガがやり玉に挙げられていたし、テレビは絶対的な悪で、時間制限が必要だと言われていた。
 教育委員会やPTAは、読んでもいないマンガ、観てもいないテレビを血祭りに挙げるのに血道を上げていた。
 とにかくマンガやテレビは絶対悪だとされていた。
 もし連中が本当にマンガを読み、テレビを観ていれば、こんな物言いはしなかったろう。
 手塚治虫の珠玉のようなマンガが出て、向田邦子の傑作が放映されていた時代である。
 もしきちんと読み、観ていれば、十把一絡げには出来なかったはずだ。
 で、世代が代わり、教育委員会やPTAがマンガ・テレビで育った世代になると、言い方が変わってくる。
 マンガ・テレビと十把一絡げではなく、有害図書や低俗番組を子供から遠ざけよう、などと言うようになってくる。
 どんなジャンルでも、そのジャンルそのものが悪であることはまれで、大抵は玉石混淆を成す。
 だから、問題は、如何に石を除き、玉に触れさせるか、にある。
 ゲームやスマホも同じで、触れさせるものの質が問題なのであって、時間ではない。
 と思う。
 知らんけど。
 ただ、我が息子を観ていても、数年前とはやっているゲームが明らかに違う。
 一昨年など、遊園地を作るゲームのためにゲーミングパソコンを買ったのに、シミュレーションの中の従業員がストを起こしていつまでも建設にかかれず、放ってしまっていた。
 ところが先日、息子が眺める画面を見ると、ジェットコースターが走っている。
「実況」ものかと思ったら、息子が操作している。
「お前、それは?」
「作ったよ」
「使えるようになったの?」
「前からだよ」
「従業員のストは?」
「そんなのいつ頃の話だよ。確か、給料上げたら解決したんじゃなかったかな。それより、お父さん、Java教えてよ」
「Javaって、あのJavaか?」
「うん。そのJava」
「実況やりたいわけか」
「そう」
「その前に、英語をもう少し出来るようにならないと、絶対に無理」
 と言うことで、英語を猛勉強することになり、英文法、英単語、CNNの雑誌を本気で読むことになった。
 子供の吸収力はものすごいもので、ヘタしたら、3月の小学校卒業までに中学校三年分をやってしまいかねない勢いだ。
 そもそも塾では小四から中学用の教材をやっていたという素地はあったにしても。
 英語力が付いてくると、Javaそっちのけで、怪しげな日本語バージョンしかないアメリカのゲームでも遊ぶようになった。
 これはもう、英語がある程度出来ないと絶対に無理で、1年前であればまずやれなかった。
 それが今はサクサクとステージをクリアして、ほとんど英語の世界に入っている。
「オーマイガッ!」
 とか言いながら。
 このゲーム、何度聞いてもどんなものなのか理解できないのだが、やり始めれば数時間かかることはわかる。
 その時間、ものすごい集中力、思考力、判断力を働かせないと即死するようなゲームらしい。
 何時間も続けて出来ること自体、まさに才能なのだ。
 こんなことを二時間もやれば、ゲーミングパソコンのファンがこれまで聞いたことのないうなり声を上げ始める。
 これ、ヤバくね?
「お前、マジCPUヤベェんじゃね、加熱してファンが回りすぎやで」
 そう言うと、息子は少し考えて、パソコンを切り、
「そうだな。これから一日二時間までにするよ」
 チャンチャン……
プロフィール
notebook
notebook
学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

< 2020年02>
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