「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2017年08月31日

伊佐山紫文44

 昨日、インバウンド関連の打ち合わせの場所で出していただいたのが烏龍茶だと気づかず二杯も飲んで、カフェインでレロレロになり、梅田で同様にカフェインでラリって早足になってる浅川社長とはぐれ、阪急宝塚線に乗るはずが神戸線に乗ってしまい、十三で乗り換えて這々の体で曽根の練習場所にたどり着いた。
 これにアルコールを加えたら大変な事になると、夜の酒は程々にしようと思いつつもカフェインで冴えた脳に杯を重ね、気づけば朝、全裸で布団に転がっていた。
「昨夜、風呂に入ってから、服着てなかったでしょ、これ、パンツ」
 すみません。
 朝五時半、夏休み最終日、息子は学校でラジオ体操だと言うし、妻は朝食を作れと急かす。
 二日酔いだの、カフェイン離脱だのと言ってはいられない。
 そもそも私は学生時代からコーヒーが大好きで、もちろん豆から挽き、お湯の温度にも気をつけ、一杯一杯、手で淹れていたものだった。
 日に何度も。
 それが、40歳を過ぎた頃からまったくカフェインを受け付けなくなった。
 カフェインを飲む→眠れなくなりアルコールを過剰に摂取する→二日酔いになる→酔い覚ましにカフェインを飲む→眠れなくなりアルコールを過剰に摂取する→二日酔いになる……
 何年か、この無限ループに陥ってしまった。
 これではアカンと一念発起して、カフェインを一切やめ今に至る。
 その、カフェインを止めた脳に、烏龍茶は直撃した
 そこにアルコール!
 ……すみません。
 考えたらうちの親父も、コーヒーの味が売りの喫茶店の店主でありながら、コーヒーは全く飲んでいなかった。
 飲んでいるのを見たことがない。
 若い頃は博多の喫茶店に通ってコーヒーを研究したというから、その頃は飲めてはいたのだろう。
 やはり、私と同じく、中年に差しかかり、飲めなくなっていたのではないか。
 それでもコーヒー豆の見立ては厳しかった。
 認知症が出て、経営する喫茶店「ムンク」も開店休業状態になり、ついに親父はアル中病院へ、母親も認知症で別の病院に入院した十数年前、膨大な事務処理のために帰省した私は、家で大量のコーヒー豆を発見した。
 試しに淹れてみると、これがもう、筆舌に尽くしがたい素晴らしいものだった。
 香りはもちろん、口中に広がる清涼感、スッキリとか、そういう言葉に出来るものではない。
 とにかく、全てが浄化されるような、真夏の夜の奇跡の秋風のような、なんとも言えぬ清涼感である。
 日田に帰っている間、毎日、私はこのコーヒーをポットに入れて母の病院に届けた。
「皆さんでどうぞ」と。
 あとで、これが看護婦さんたちの間で話題になっていたことを知った。
「ムンク」の味がする、と。
 親父は、自分がコーヒーを飲めなくなっても、店で提供する豆の吟味は決して怠ってはいなかったのだ。
 あれから十数年、父が逝き、母が逝き、コーヒーが飲めなくなっても、あの味を懐かしむ自分がいる。
 そういうものを一つでも、私は我が息子に残すことが出来るだろうか。
 
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2017年08月30日

伊佐山紫文43

 28年前、私はまずフリーのライターとして『ライフステーション』に関わることになった。
 当時としては、いや、今でも珍しいことだが、フリーのライターも含めた編集会議が東京で開かれ、私もそれに参加した。
 後に関西を代表する情報誌の編集長になるY氏ともここで知り合った。
 昼間は全員で何やら得体の知れない編集会議なるものを延々とやって、夜は東京組+東京に泊まる神戸組で飲み会である。
 その三次会、編集長I氏が私に声をかけてきた。
「専攻は何だ」
「生物学です」
「だったら、PとかQとかと同期か?」
 編集長は全く知らない人物の名前を次々と挙げるのだった。
「おかしいなぁ、お前、本当に生物専攻か?」
「はい」
「まさか、お前、大学はどこだ?」
「愛媛大学ですけど」
「ハァ! おい、T!」
 と、編集長は私の採用を決めたT氏を呼びつけた。
 T氏は編集長の前に正座した。
「お前、こいつがバカ大出だと知ってたのか!」
「……はい」
「なんで、バカ大出を採用した!」
「……文章が、いいかな、と」
「バカでも文章は書けるんだよ! 文章が書けてもバカはバカ、どうしようもないんだよ、分かってるのか!」
「はい、申し訳ありません」
「まあいい、とっちまったもんはしょうがねえ」
 そう言って、私の方を睨み、
「もういい、どうせお前、バカ大しか出てねえ事実は消せねえ。仕方ねえ、だったらお前、バカ大の星になれ、バカ大でもやれるってことを証明しろ、このバカ大!」
 それから飲み会が終わるまで、編集長はバカ大を連呼し続けた。
 不思議と怒りはわかなかった。
 出版界では東大京大を出ていなければ出世はおぼつかないことなど常識だ。
 それでも何か黒いものがわだかまった。
 それから数年が過ぎて、編集長とも昵懇というような仲になった頃、私は聞いた。
「編集長、僕が愛媛大学出だと、飲み会まで知らなかったんですか?」
「バカか! そんなはず、あるわけねえだろ。お前の採用はオレが直接決めたんだよ」
 結局、あの飲み会の暴言はT氏と結託しての一芝居だったわけだ。
 この編集長I氏は角川に来る前は小学館の編集者で、小学館始まって以来、初めて東大出ではない学年雑誌の編集長になった人なのだった。
「この世界、東大出てない人間がどれほど苦労するか、わかるか。でも、最初にガツンとやられとけば、その後のことはたいてい耐えられるもんなんだよ」
 その頃、私の目の前には前途洋々たる未来しか広がっていなかったから、編集長のこの配慮がいかにありがたいものであったかなど、知るよしもない。
「ハァ」と頷き、ビールを干しただけだった。

 
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2017年08月29日

伊佐山紫文42

『美味しんぼ ア・ラ・カルト 元気の出る料理』(作:雁屋哲 画:花咲アキラ)を駅の売店で買い、新幹線の車中で読んだ。
 広島から帰ってきて、妻が「なんでそんなもの買ったのよ」と言うから、
「懐かしいからだろ」
「懐かしい? 懐かしいからって買うの?」
「懐かしい以上の買う理由ってあるか?」
 とにかく懐かしい。
 この『美味しんぼ』の『ビッグコミックスピリッツ』での連載が始まったのが私の学生時代で、当時、友人の間では山岡士郎のモデルは私だと言われたものだった。
 食品添加物だの化学調味料だのにウルサく、有機農産物だの無農薬だの、得体の知れないことにこだわる不気味な学生、それが私だった。
『美味しんぼ』の連載が始まったとき、私は周囲に絶賛し、単行本が出るとすぐに買い、日田の家族に薦めた。
 山岡の父親である海原雄山が生涯をかけて乗り越えようとしているとの設定の、北大路魯山人の著作にもこの頃出会い、生活を芸術化するという理想に憧れた。
 とにかく料理は手作りする。
 化学調味料や市販の出汁やコンソメなどは一切使わない。
 魚は一匹買ってきて自分でさばく。
 素性の知れない肉は食べない。
 インスタントラーメンやレトルトカレーなどとんでもない。
 添加物のカタマリ、毒です。
 まあ、ヘルシーっちゃヘルシーだし、勝手にやってるぶんには誰にも迷惑をかけないから良いようなものの、これを政治化してたからね、左翼学生だった私は。
 大学生協の食堂に色々イチャモンをつけたりなんだり、思い返すも恥ずかしい所行に及んでいた。
『美味しんぼ』も今読めばムチャクチャ政治的で、さすが原作が『男組』『男大空』の雁屋哲だと感心するし、だからこそ学生時代の私に響いたのだと思う。
 いや~もう、恥ずかしい。
 懐かしいなんてもんじゃない、恥ずかしすぎてページをめくっていられない。
 一言で言えば幼稚。
『美味しんぼ』も、これに感銘を受けた当時の私も。
 たとえば沖縄が長寿なのは男性の自殺率が極端に低いからであり、食生活とは無関係であることは統計的に明らかとなっている。
 であれば長寿食として沖縄の料理を紹介する意味はない。
 そんな、こんな。
 ビタミンだのミネラルだのの議論も常識の範囲で、浅い。
 浅いけれど、思い返せば、こんな常識もかつては常識ではなかったということか。
 その意味では確かに日本の食生活を変えたマンガだとは思う。
 あの時代には、このマンガが必要だったのかも知れない。
 で、いつしか私も歳を取り『スピリッツ』も読まなくなって、『美味しんぼ』からも卒業した。
 今ではインスタントラーメンもレトルトカレーも普通に食べるし、生活の芸術化などとはほど遠い生活をおくっている。
『美味しんぼ』とは、私にとって懐かしく恥ずかしい、青春の書であることを確認した。
「ハァ! そんなことのために450円も使ったの!」
 すみませんね。
 以後気をつけます。
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2017年08月28日

伊佐山紫文41

 コープこうべのチラシに「夙川座公演音楽劇」として「神戸事件始末 瀧善三郎の最期」が載っている。
 感慨無量と言えば言いすぎだろうが、何か懐かしいものを感じてしまうのは事実だからしょうがない。
 思えば、かつて私も編集者・ライターとして関わった雑誌『ライフステーション』(灘神戸生協(現コープこうべ)と角川書店が合同で出版していた、現『ステーション』)の特集記事も同じようにチラシに載っていた。
 私の企画、環境問題やゴミ問題も同じようにチラシに載せて貰っていた。
 当時は「当たり前でしょ」くらいにしか思っていなかったが、今思えばありえないくらい贅沢な話だ。
 これだけの枠を代理店を通して買うといくらになるか。
 贅沢な時代だった。
 贅沢だが、雑な時代でもあった。
 私が角川を辞めつつも、角川のある役員の顧問的な役割でライターになり、環境問題の記事を書いていた頃の話である。
 角川が『ジパング』という情報雑誌を鳴り物入りで出し、これを東京から全国に広げて行くという。
 その発刊パーティを企画するその場で、私は言った。
「これはマズイです。『ジパング』は絶対に○○が登録しています。訴えられます」
 まあ、ここまで露骨な表現ではないが、それなりの警告を発した。
 もちろん27歳の、どこの馬の骨とも分からぬ若造の意見が通るわけなどない。
 それに私も、もうとっくに社員は辞めている。
 何が起ころうが知ったこっちゃない。
 パーティーも滞りなく行われ、発刊の準備は粛々と進んだ。
 で、ある日、と言うか、ある夜、その角川の役員から電話がかかってきた。
「すぐ来い、いや、来てくれ」と。
 新神戸のホテルまでタクシーで駆けつけると、最上階のバーで、いつもならヘベレケに酔っている時間なのに、シラフでコーヒーなぞ飲んでいる。
 私の顔を見ると、その役員はウイスキーを注文した。
「大変なことになった。お前の言うとおり、○○が登録していた。もう訴訟も用意しているらしい」
「だから言ったでしょう!」
「もう言うな。お前はいつもそうだ。そうやって人を追い込む。お前が正しいのは分かったから、今後のことを考えよう」
「わかりました。とにかく『ジパング』は使えないことになったわけだから、別の名前を考えないと……」
「それを登録するには半年かかると言われたんだ。間に合わないだろ」
「だったら、登録できないような、本当にありふれた名前にするとか……」
「登録できない?」
「たとえばSONYのウォークマン、あれは登録できないんですよ。あまりにもありふれた名前だから」
「そうなのか? ウォークマンが登録できない」
「そうです。だから『ウォーカー』なんて名前なら……」
「『ウォーカー』! それ良い、それ貰おう。『ウォーカー』か……それは良い。『ジパング』よりよっぽど良いぞ。おい、イサヤマ、とりあえず飲め、おーい、オールドパー、ボトルで持ってこい!」
 これが、今、全国を席巻している情報雑誌『ウォーカー』命名の瞬間である。
 もちろん、角川からは一銭も貰っていない。
 ただし当時の『ライフステーション』には、好き放題、環境問題、ゴミ問題の記事を書かせて貰ったが。
 まあ、贅沢で好い加減な、良い時代だった。
 
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2017年08月27日

伊佐山紫文40

 息子を連れて広島に行ってきた。
 もちろんヒロシマに、である。
 息子は表面上はなんでもないふりをしているが、やはり何か感じるものがあったのだろう、行動の、言葉の、端々に、少しずつヒロシマが感じられる。
 それで思ったのは、記憶というもののはかなさ、もろさ、と強靱さである。
 原爆という、あれほどの体験であっても、こうやって、公園をつくり、記念館をつくり、記念碑を建て、それでも記憶は薄れていく。
 久しぶりに会った知人たちも一様に被爆体験の風化を嘆く。
 それに共感しつつ、やはり思うのは、いつまでも辛い記憶を抱えていては、人は生きていけないのだろうと。
 だから忘れる。
 過去にとらわれては、人は生きていけないのだ。
 それでも忘れまいと、公園を整備し、記念碑を建てる。
 記憶のはかなさと、強靱さとのせめぎ合いを広島(ヒロシマ)に見たような気がする。
 さて、今回、10数年ぶりに広島を訪ねて感じたのは、とにかく「外人」が多いこと。
「外人」とあえて書いたのは、中国人や台湾人なら大阪でも珍しくないのに、広島では英語やフランス語やイタリア語の、いわゆる白人のネイティブとやたら出会うからである。
 昼食で入ったイタリアンの店では、明らかに英語ネイティブのカップルと隣り合わせになり、店を出て行く時にはアメリカ風の目配せをした。
 ホテルでは白人の団体客がロビーを占拠していた。
 なんの遠慮もない姿勢の、セイウチのような巨漢の女性のパンティが目に残る。
 平和記念資料館では日本人より「外人」の方が多かったのではないか。
 広島はあきらかにヒロシマを観光資源化している。
 それを非難しようとは思わない。
 むしろ賞賛しようと思う。
 禍を転じて福となす、と言うではないか。
 むしろ神戸も、神戸事件や大水害や震災を福となすべきだと思う。
 神戸事件という、明治維新という大革命のなかで起きた悲劇を物語化し、記念碑を建て、資料館も作って「外人」を引き込むべきだと思う。
 廃墟ホテルツアーも良いが、その回りの緑に目を向け、それが人工林であること、如何にその林が作られていったか、その科学的な妥当性を知らせるエコツアーは、砂漠化に苦しむ国々からの客に訴えるものがあると思う。
 何より震災からの復興の物語は、今でも災害や戦災の後遺症に苦しむ国々からの観光客の心に訴えるものがあると思う。
 先日参加した神戸元町インバウンドミーティングの納涼会でも訴えたが、インバウンドのネタは足下にゴロゴロ転がっている。
 それを生かすか、殺すか。
 それだけの話だと思う。
 原爆の犠牲者も、ヒロシマの生を生きた者として甦り、今の広島を活性化させている。
 これも一つの供養である。
 神戸も見習うべきだと思う。
 
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2017年08月25日

伊佐山紫文39

『折口信夫』安藤礼二 講談社
 左翼論壇に媚びた「列島」だのの物言いが鼻につき、そんなに国家が憎いのならアナキストになって爆弾でも投げてろよ、と皮肉の一つも言いたくなる。
 それからセクシュアリティや容姿について意図的に避けているのも気になる。
 同性愛者でない、顔に痣のない、ツルペロリンの折口信夫など、論じて何の意味がある、と皮肉の一つも言いたくなる。
 とはいえ、枕に好適な500ページを越す大著、それも、どこを切っても濃厚な肉汁の溢れ出る、厚切りステーキのような名著である。
 今後、折口信夫を語るにあたり、必ず参照される基本文献となるだろう。
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2017年08月25日

伊佐山紫文38

『チョコレート工場の秘密』
ロアルド・ダール作 田村隆一訳 評論社
 ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の映画『チャーリーとチョコレート工場』(平成17年2005年アメリカ)の原作。
 公文の課題図書になってるのを息子が見て、どうしても読みたいというものだから図書館で借りてきた。
 それでビックリ!
 訳者が、その晩年に「詩人は退歩的野蛮人」なる名文句を吐いた田村隆一大先生ではないか!
 だからもう、こなれた訳文で、息子が数時間で読んでしまったのも宜なるかな。
 中身よりも、大先生の名文を味わいながら読むことに。
 ちなみに「退歩的野蛮人」とは、もちろん「進歩的知識人」のもじりね。
 左派のインテリを皮肉ったもので、そのなかには当然、吉本隆明も入っていたことだろうが、当の吉本は田村隆一先生を高く評価しており、確か谷川俊太郎先生や吉増剛造先生と並べて、日本の三人のプロ詩人と呼んでいた。
 で、この本、チョコレート工場の荒唐無稽な描写の中に、ちゃんと皮肉と教訓とが詰め込まれていて、大人にとっても楽しい読み物になっている。
 原作ではテレビ狂だった少年が映画ではゲームオタクになってるのもご愛敬。
 原作のテレビ批判はそのままハリウッドに跳ね返り、自己否定になってしまうからね。
 初版は昭和47年(1972年)で、差別用語乱発。
 かといって、他の言葉への置き換えは詩人が許さないだろうから、たぶん今では他の人の訳が出ているのだろうと思って調べたら、なんと柳瀬尚紀大先生が訳していた。
 二度ビックリ。
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2017年08月24日

伊佐山紫文37

 実家の母屋にはかまどがあり、正月はそこに火が入れられて餅米が蒸され、家伝の臼と杵で餅つきが始まるのだった。
 戦前の車引きだったMさん夫婦やそのほかにも、私には繋がりの見えない人々が集って、笑いながら歌いながら餅をつくのである。
 一点の曇りもない、晴朗な光に満ちた世界だった。
 けれど、不思議なことに、そこに母がいた記憶がない。
 と言うより、この餅つきに限らず、様々な家族のイベントで、母と祖母が共にいるのを見たことがない。
 私の誕生会には祖母がおらず、お盆参りには母がいなかった。
 見事なまでの記憶の欠如、いや、記憶ではなく、そのような事実そのものがなかったのだろうと思う。
 嫁姑関係は、おそらく最悪だった。
 そもそも父と母とでは「家」のバックボーンが違いすぎた。
 父は落ちぶれたとはいえ地方の名家の御曹司である。
 対する母は朝鮮半島の植民者二世である。
「君たちは内地の子供とは違う。内地では「家」が守ってくれるが、ここ植民地では君たちを守るのは君たち自身だ。君たちは自分で自分の運命を切り開いて行かなければならないのだ」
 とまあ、そんな教育を受けてきた植民者二世である。
「家」などという、ジメッとした存在自体、体が受け付けない。
 反面、自分にはない、歴史だの伝統だの、そういう重みに憧れる。
 で、結婚してみたものの、そこには「家」を体現するかのごとき姑がいて、ことあるごとに「そこに座りなさい。うちの家では……」。
 後に完全別居するようになり、それこそフォーティーズ・クライシス(中年の危機)のまっただ中、母は酒に溺れ、毎夕、泥酔しては姑、つまり私の祖母への悪口雑言を尽くし、私に同意を強いた。
 私が少しでも同意を渋ると「お前もやっぱりイサヤマの人間カァ!」と怒声を飛ばした。
 他人への悪口三昧は自分の現状への呪いへと横滑りし、教員を辞めて小料理屋を始めたけれども失敗したその恨みを酒で増幅させ、父に絡み、私に絡み、よく分からないが電話をかけてきた相手に絡み、怒声の中で問題をこじらせた。
 何の解決にもつながらない酒を、一升瓶で買ってくればそれで酔いつぶれて終わりなのに、見栄があるものだから自販機でカップ酒を買い、結局足りずにまた酒屋の自販機へ……
 酔っ払って足下も危うくヨロヨロと酒屋へ通うその姿は、さながら、自身が開き失敗して閉じた小料理屋の名前「山姥」そのものだった。
 父はなすすべもなく、酒をあおり、左翼仲間のたむろする居酒屋へ入り浸った。
 多感な高校生だった私は、ひたすら家を出ることばかりを考えるようになった。
 日田には大学はなかったから、とにかく大学進学を決めて、日田を出て行こう、と。
 それでも、今思えば、酔っ払った父母の絡み合う怒声が深夜まで続くような家で、まともな勉強が出来るわけがない。
 私は一人荒れ、詩作に逃げ、音楽に逃げた。
 母が酔いつぶれ、父が居酒屋に出て行った深夜、カラヤン指揮のフランツ(シューベルト)の「未完成」にレコード針を落とし、第一楽章の、あの不気味な動機が始まると、私の荒れ狂った心は静かに、静かに、鎮められていく。
 そして誰にも読まれることのない詩を、一言ずつ、心の中に書き留めていく。 
 第二楽章が一条の光を残して終わり、まさに未完成、深い静寂が訪れて、私は頭の中のペンを置き、これでやっと、この世界で生きていく力を取り戻すのだった。
 だから今、下らないユーチューブを見ながら無邪気に笑う息子の声を聞くとき、いつまでもそのままでいてほしい、と心から願う。
 晴朗な光の作り出す影の、その深い闇など、一生知らずにいてほしい。
 そう思いながら、今宵もやはり一人酒。
 遺伝です。
 仕方ない。 
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2017年08月23日

伊佐山紫文36

 毎年、夏の終わりには喉を痛める。
 冷たいものを飲み過ぎるのもあるし、何より、夏休みで家にいる息子を怒鳴るから。
 あれしろ、これしろ、と、いちいち言わなくてもかまわないのに、つい怒鳴ってしまう。
「もうすぐ反抗期になって「るせえよオヤジ」とか言うようになるんだから、今のうちに言うこと聞いとけ」
「その、反抗期の走り、もう来てるぞ」
 などと、やりあっている。
 思えば私が9歳の夏、何をしていたか。
 基本、昆虫採集に明け暮れていた。
 故郷日田は大分県に属し、大分の特産、椎茸の産地である。
 その椎茸の培地はクヌギである。
 里山に少し入ればクヌギがあちこちにある。
 そのクヌギの樹液は甘く、カブトムシやクワガタが寄ってくる。
 それを獲りに行く。
 ほとんどの甲虫は夜行性だから、本当は夜が良いのだろうが、子供だからそうもいかない。
 だから早朝、出かけていく。
 樹液が出ている木は決まっているので、山の中をパトロールするように、あの木、この木、と渡り歩く。
 他の子は見向きもしないようなカナブンも獲る。
 とにかく虫かごを一杯にしたいのだった。
 かく、虫、虫、虫で明け暮れた夏だった。
 ところが息子は、昆虫は一切嫌い、言葉が出ていなかった4歳のころから、小さな虫を見つけては「プチ、プチ」と指さして、どっかやってくれと言っていた。
 もちろん蜘蛛の巣も大嫌い。
 階段に蜘蛛の巣が張っていると、その下を通るのさえ嫌がる。
 日田の家の蜘蛛の巣の話をすると、絶句して「その話は止めて下さい」などと言う。
 あれは私が、それこそ小学校の3、4年くらいの頃、納屋を探検したときの話である。
 納屋には戦前からの様々な道具が立てかけられ、積まれ、一大奇観を成していた。
 そこにそっと忍び込み、鎌や鍬や、様々な道具を手に取るのが私の密かな楽しみだった。
 ところがある日、何かの拍子に、その道具の山が崩れた。
 微妙なバランスを保っていたガラクタたちが、一斉に崩れた。
 と言っても、それは子供の頃の記憶で、大したことではなかったのだろうが、とにかく、何かが崩れた。
 で、納屋に張られていた蜘蛛の巣が一気に私の顔に吹きつけられた。
 顔中、そして髪の毛まで蜘蛛の巣に覆われた。
 虫は嫌いでなかったが、こんなことまで喜ぶほど変態じゃない。
 そのあとどうしたか憶えてはいないが、とにかく、納屋に入るとろくなことにはならないと学んだ。
「(その納屋)今もあるの?」
「ねえよ。とっくに壊した」
「良かったぁ~」
「それより、公文やれ!」
「るせえよオヤジ!」
「はよ、やれ!」
 ああ、今日も喉が痛い。
 
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2017年08月22日

伊佐山紫文35

 昨日は9月4日に出演する番組の打ち合わせに関西ラジオに行ってきた。
 放送は朝8時10分からという、微妙な時間なのだが、主婦(主夫)が台所で聴いていることを期待しよう。
 あるいはドライバーが運転しながら聴いていることを。
 それで、いつも不思議に思っているのだが、テレビと違って、普通、ラジオは事前の打ち合わせがない。
 少なくともこれまで私が出演したラジオでは全くなかった。
 誰がその日のコメンテーターかもわからないものだから、スタジオに入ったらかねての知り合いがいて、その日のテーマそっちのけで雑談にふけったこともあった。
 こんなことも、事故ではなく、むしろ即興的なアクシデントとして楽しむ雰囲気が確かにラジオにはある。
 けれどそうも言ってはいられない場合もある。
 今回の打ち合わせは夙川座から提案したもので、それは、約20分という限られた出演時間の中で、歌も流し、こちらの訴えたいこともしっかりと伝えるには、事前の話し合いが絶対に必要だと判断したからだった。
 放送はまだだから何とも言えないが、現時点では、ディレクターと直接会って話が出来て良かったと思う。
 あとは夙川座が本番で頑張るだけだ。
 ラジオ関西での打ち合わせの後は、兵庫県に神戸事件関係の企画を提案し、その後、記事を載せてくれた『兵庫ジャーナル』にお礼参り。
 神戸という街は様々な機能が中心部にギュッとまとまっているから、必要な個所を徒歩で効率よく回ることが出来る。
 夙川座のように車のない組織には実にありがたい街である。
 思えば30年近く前、まだ20代だった私も神戸の街を歩き回った。
 夜は、同業の編集者やライターやデザイナーやイラストレーターやカメラマンや新聞記者と、毎晩のように飲み歩いた。
 払いはもちろん会社の金である。
 私が使う会社の金など微々たるものだが、東京から編集長が来たときなどはそれこそ豪遊で、当時は一皿数万円もした神戸ビーフのステーキを、飲み会の参加者全員にふるまったりした。
「伊佐山、とにかく(相手に)会いに行け、電話ですまそうとするな」
 が編集長の口癖で、この後に、
「電話で女が口説けるか?」
 が続く。
 シラフの時は繊細、酒を飲めば豪放磊落、酔いつぶれた編集長をホテルや新神戸駅まで送って行くのはいつも私の役目だった。
 もうとっくに亡くなったが、その名は今でも関西の編集者の記憶に残っている。
「とにかく会いに行け」
 その教えは今でも私の中に生きているし、間違ってはいないと思う。
 ただし、時代は変わった。
「テレクラ」なんてものは論外としても、メールで女を口説ける時代にはなった。
 それでも編集長は言うんだろうな。
「とにかく会いに行け、メールですまそうとするな」
 はい!
 これからも神戸の街を歩き回り、とにかく会いに行きます。 
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2017年08月22日

伊佐山紫文34

『三文オペラ』ブレヒト作 谷川道子訳 光文社古典新訳文庫
 先日亡くなった作詞家の山川啓介先生は、実はご自身でも脚本を書き、ミュージカルを作っておられた。
 それで、とあるシンポジウムで音楽劇の名作の条件を挙げられた。
「一つの作品の中に一曲でも良い、名曲が生まれれば、それは名作です」
 私はその時、まだ作詞を始めてはおらず、脚本を作る劇作家という立場でパネリストになっていたので、ちょっとカチンと来、それでもその場は憚れ、打ち上げの席で反論した。
 やはり、芝居はストーリーだと思います、と。
 すると先生は「『キャッツ』ってどんな話だった?」と聞いてこられた。
 参った、と思った。
 あんなよく分からん話でも「メモリー」一曲で名作になるのがこの世界なのだ。
 まさに舞台には魔物が潜んでいる。
 で『三文オペラ』である。
 一時の日本の左翼演劇界はブレヒトで回っていた時期があって、猫も杓子もブレヒトで、そうでなければ反ブレヒト、異化だかタコだか、教育劇か今日行く劇か、それはそれはウザイものだった(らしい)。
 ブレヒトのそもそもの経歴が極めてうさんくさい。
 ナチスを逃れてアメリカ亡命まではまあ分かるとして、落ち着く先が東ドイツで、これから年譜で辿るだけでも東ドイツの「芸術アカデミー会員」になり「東西ベルリンのペンクラブの会長」に選ばれ、あげくは「スターリン国際平和賞」まで「受賞」するなんて、どれほどうさんくさい存在なんだよ。
 でもこれが日本の左翼にはたまらない輝かしさで、うちの父親は我が神、吾が仏とばかりにあがめ奉っていた。
 で、今、新訳で読み返してみると、ハッキリ言ってつまらない。
 それでも名作なのは、本書でのタイトル「ドスのメッキーズ殺しのバラード(モリタート)」一曲があるからだろう。
 英名は「マック・ザ・ナイフ」、ジャズのスタンダードナンバーにもなった、クルト・ヴァイルの傑作である。
 実家にも若いクレンペラー指揮の組曲盤『三文オペラ』があったような気がする。
 往年の大指揮者の悠揚たる響きとは違う、もっとセカセカした、退廃音楽を地でいくような演奏だったような。
 なんでこれを今読み返したのかと言えば、先日、若い人たちと演出上のことでナイフ使いのことが話題になり「メッキー・メッサーのモリタート」の話をすると、全く知らない、聴いたこともない、と。
 私も『三文オペラ』の内容は忘れていたので、どういう話だったのか、読み返したってこと。
 まあ、時間の無駄とまでは言わないけれど……
 こんなやっつけ仕事が世界的大ヒットになってしまうんだから、まさに舞台には魔物が潜んでいます。
 どんな魔物か知らないが、あやかりたいものです。
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2017年08月22日

伊佐山紫文33

 三島由紀夫が自決したとき、コメントを求められた評論家の磯田光一が、今後一年間は一切三島について発言しない、と言い、実際、その通り沈黙を守ったのを知って、若い私は痺れるほど感動した。
 物書きとはこうでなくてはならない、と。
 人の不幸でさえ、と言うより、むしろ人の不幸をエサにしているようなマスコミとは距離を置くべきだ、と。
 事態が沈静化した後に、じっくりと自分の考えを発表すれば良い、と。
 で、同じことをやってしまった。
 今でも悔やまれるが、古い友人に誘われてビートたけしを批判する本を共著で書いた。
 共著と言っても、私以外はみんなシロウトの、まあ、下らない本である。
 読むにも値しない、出す意味も無い、三流雑誌の記事以下の駄本である。
 ところがこれを、当のビートたけしがテレビで褒めた。
 私の担当した個所を絶賛した、らしい。
 私はその番組を見ていないからなんとも言えないが、とにかくそれで火がついて、本は売れに売れた。
 本題はここからである。
 本が出た数週間後、ビートたけしが例の事故を起こし、意識不明の重体となる。
 私のところには、コメントを求めるマスコミが文字通り殺到した。
 なにしろ例の本の、私の担当した文章のタイトルが、
「たけしを成仏さすために」
 しかも、まだ事故の前、調子に乗って受けた週刊誌のインタビューで「もう死んでますよ」などとコメントしていたものだから、それこそ予言者扱いされて、ひっきりなしに電話がかかってくる。
 今なら考えられないことだが、出版社は平気で連絡先を教える。
 と言うより、マスコミ連絡帳、みたいな本はもとより、『朝日年鑑』の別冊にまで、私の連絡先は載っていた。
 そういうのに載せれば仕事が来ると思っていたし。
 で、ここからが愚かなところ。
 磯田光一大先生の真似をしてしまった。
 人の不幸で商売はしません、と、コメントを一切断った。
 ビートたけしが死んで一年経った頃、また何か書けば良いと思っていた。
 ところがたけしは復活したし、私は気難しい物書きという評価が定着して誰も仕事を持ってこなくなった。
 私は磯田大先生とは違う、ということに初めて気がついた。
 思えば私のようなチンピラにとって、たけしの事故は大きなチャンスだったのだ。
 人の不幸だろうがなんだろうが、すべてをチャンスと捉え、食いつくべきだったのだ。
 実際、たけしは甦ってきたのだから、どれだけ私がひどいことを言っていようが、後になって笑い話にしてくれただろう、と思う。
 チンピラがのし上がるには手段を選んではいられない。
 お互い様なんだから、と。
 あ~あ、何という失敗。
 若さってやつは。
 
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今、ぴあで売れてます。

10/21 ムラマツリサイタルホール新大阪にて。
15時開演(14時半開場) 1時間半ほどの公演。
全席自由
クラシック音楽劇「恋の名残 新説 曽根崎心中」
出演…お初 森井美貴、徳兵衛 谷浩一郎、お鈴 陰山裕美子、九平次 砂田麗央、稗田阿礼 浅川文恵、ピアニスト 白藤望
三味線 勝井粧子

Pコード337310
セブンイレブン、サークルKサンクスで購入出来ます。
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2017年08月20日

伊佐山紫文32

 大学院を辞め、不動産鑑定士の補助者として働き出した夏、あれはもう30年以上前、松山郊外の水田で私はマツモムシを眺めていた。
 マツモムシというのは水中半翅目(水の中のカメムシ)に属する昆虫で、英名をbackswimmer背泳するもの、と言うくらい、裏返って泳いでいる。
 そいつらが水面と水底を行き来するのを眺めながら、私は「こいつらともお別れだな」と感慨を深くした。
 それまでの私はずっと、理系の子として、理系の何かに成るべく、そのような将来像を抱いて生きて来た。
 祖母や親戚からは「医者になれ」と言われ続け、けれど人の生命を直接預かる職業に就くような覚悟も無く、隣接する生物学を選んだ。
 生物学の中でも、生態学という、もっとも社会との接点のある分野である。
 この時点で、誰がかが気付くべきだった。
「お前は理系じゃない」と。
 実際、高校の頃から、理系の科目に関心が持てなくなっていた。
 高得点なのは常に国語と社会である。
 だいたい、模試で国語と社会の学年一位をキープしている男が理系にいるのがおかしい。
 それなのに「文系の医者はいないが、医者の文学者はゴロゴロいる」などとうそぶいて生物学を志すなど、何かが捻れている。
 で、その捻れは大学時代に噴出した。
 私は時代遅れの学生運動に、遅れてきた青年として参加した。
 どこに行っても最年少、ちやほやされ、舞い上がった。
 自分が如何に危険なところにいるか、気付くこともなく、深入りした。
 そして気付いたときにはもう遅く、大学院を辞めることになった。
 別に辞める必要も無かったとは思うけれど、当時の自分の気持ちとしては、けじめをつけるような感じだったのかもしれない。
 その大学院を辞めた夏、マツモムシを眺めながら、これからは理系じゃない、何者かとして生きて行こうと思った。
 マツモムシの田んぼは、裁判所での競売が始まっていた。
 私たちは、田んぼではなく、自宅の競売を告げに来ていた。
 事実を告げられた老婆は狼狽え「田んぼはどうですか、うらの田んぼは?」と聞いた。
 田んぼの競売が始まっていることなど、とうに知っていると思っていた。
 けれど私たちは「田んぼのことは聞いていません」と答えた。
 老婆は安堵の表情を浮かべ、私たちを田んぼへと案内した。
 そして長男が騙されて他人の保証人となったこと、そしてこの田んぼがいかに良い田んぼであるか、自分がどうやってこれを守ってきたのか、私たちを案内しながら訥々と語るのだった。
 その田んぼではマツモムシが水面と水底を行き来していた。
 ああ、自分はこれからどうなっていくのだろう、と、老婆の話を聞きながら思った。
 もう30年以上も前の話である。
  
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2017年08月19日

伊佐山紫文31

 高校の文化祭でゴキブリを料理した。
 一週間前から綺麗なエサを与え、消毒された容器で飼育された食用のゴキブリである。
 皆さんにふるまうにしても、おそらく10人も食べないだろうから、用意した食用ゴキブリは10数匹、ゴキブリを食べたという証明書も10枚。
 フライパンに油を湛えて熱し、準備万端、校内放送で「これから科学部がゴキブリ料理を提供します」。
 BGMは冨田勲作曲の「きょうの料理」である。
 最初は興味本位でやってきた男子数人、羽をむしられたゴキブリが油の中でキュルキュルとエビぞり悶絶する様を見て、自らも悶絶せんばかりに息を飲んで散っていった。
 最初に食べたのは女子だった。
 有名な不思議ちゃんで、これは想定の範囲内。
「美味しいよ、アブラゼミに似てる」
 比べる対象が合ってるような、おかしいような、やっぱり不思議ちゃんだった。
 ただ、これを呼び水に「私も私も」状態になり、あっと言う間に食用ゴキブリは売れてしまった。
 残るのは行列で、どうする、と科学部内で内緒の会議。
 仕方ない、と普通に飼っているゴキブリも提供することにした。
 ただ、丸ごとだとアブナイかもしれないので、油で揚げたものを擂り潰し、パンケーキに混ぜて提供することにした。
 これが、受けた。
 微妙に香ばしいのが良かったのか、100枚以上は売れたと思う。
 客の大半は女子だった。
「それで、お父さんは食べたの?」
「食べるわけねーわ、アホか」
 文化祭ってなに? と息子に聞かれての話でした。
 実に文化的なエピソードですね。 
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2017年08月19日

伊佐山紫文30

歌われるあてもなく……

「冬の旅」全訳 
ヴィルヘルム・ミュラー詩
訳詩(歌詞化)伊佐山紫文

1「おやすみ」

 暗き雪路を一人歩み
 我は出て行くこの村から
 恋の宴はとうに終わり
 永遠の誓いも徒(あだ)と消えぬ
 冬の嵐を越えて行かん
 冬の嵐を越えて行かん

 月影射して嵐は止み
 光りにたどる獣の道
 歩みを止めて見上ぐる空
 月影だけぞ心の友
 余所者我は一人行かん
 余所者我は一人行かん

 流離(さすら)う定め、追われずとも
 吠えたてよ犬、主人のもと
 愛の言葉の儚(はかな)きこと
 そは神の成す奇(く)しき業(わざ)ぞ
 脚は向き行きぬ、お前のもと
 最後に一目、窓越しにも

 暖炉の灯り部屋に満ちて
 雪を照らしぬ、窓を越して
 懐かし灯り、歩み寄れば
 灯りは消えぬ、睡りの時
 再び歩む、この雪路を
 お前に捧ぐこの一言
 ただ「おやすみ」

2「風見の旗」

 風は吹くこの胸に
 あの日のままに
 忘れもしない日々
 愛を信じていた
 
 知らぬ間に愛は去り
 嫁ぎ行くお前
 騙された我のみ
 この村を去ろう

 風は吹く、冷たく
 この胸貫き
 誰かに抱(いだ)かれた
 花嫁のお前
 
 風は吹く、冷たく
 この胸貫き
 誰かに抱かれた
 誰かに抱かれた
 花嫁のお前

3「凍れる涙」

 涙の雫 我が頬伝う
 命の証し 頬を伝う
 頬を伝う

 涙 涙よ
 生暖かき
 それでもすぐに凍りゆくか

 胸の炎は泉となり
 熱き涙で冬を融かせ
 冬を融かせ

 胸の炎は泉となり
 熱き涙で冬を融かせ
 冬を融かせ

4「凍れる大地」

 吹雪の中に探し求め
 この胸去らぬお前の影
 手を取り合って歩んだ道
 緑の道はどこに消えし

 雪に埋もれし大地求め
 熱き涙で溶かしゆく
 氷を
 雪に埋もれし大地求め
 熱き涙で溶かしゆく
 氷を

 緑の大地 花も香り
 あの日の光り どこに消えし
 あの日の光り どこに消えし
 緑の大地 花も香り

 この傷癒えし その時には
 想い出もまた 消え行くのか
 この傷癒えし その時には
 想い出もまた 消え行くのか

 凍てつく心 その内には
 お前の姿 心に抱(いだ)きぬ
 凍てつく心 融け行くとき
 想い出もまた 消え行く
 消え行く 消え行く

5「菩提樹」

 泉のほとり 影を映し
 茂る菩提樹 我を抱きぬ
 愛の言葉を いつか憶え
 夢に遊びし 幼き頃 

 今日もさすらい 旅にありて
 暗闇の中 道も見えず
 聞こえ来るのは 甘きさやぎ
「我の木陰に 憩い眠れ」

 北風吹いて 帽子は飛ぶ
 それでも我は 歩み続く
 遠きにありて それでもなお
 耳に残るは 甘きさやぎ
「我の木陰に 憩い眠れ
 菩提樹のもと 憩い休め
 憩い眠れ」

6「ゆきどけ」

 まなこを溢れて 涙は流れ
 冷たき大地は 涙凍らせ
 涙凍らせ

 季節は春へと 風も過ぎゆき
 氷も融けゆき 大地は萌えて
 大地は萌えて

 我が想い知るや 涙の行方(ゆくえ)
 ゆきどけ混じりて 小川となりぬ
 小川となりぬ

 流れし小川は 村に至りて
 涙はたぎりぬ その家巡り
 お前の家を

7「凍れる水面」

 小川の流れ 今はやみて
 別れの時に 口を閉ざす

 厚き氷に 水面硬く
 閉ざされし今 何を思う

 石を持て今 お前の名を
 ここに埋めよう 想い出とも

 出会いの時と 別れの時
 全て埋めよう この指輪と

 今我が心 ここに見ぬか
 閉ざされたなか 猛り狂う
 冷たく燃えし

 今我が心 ここに見ぬか
 閉ざされたなか 猛り狂う
 冷たく燃えし
 冷たく燃えぬ

8「想い出」

 つま先凍えて まるで燃えるよう
 あの街の塔から 駆け逃げるように

 ゴロ石につまづき よろめきながらも
 カラスども空から 我を追い立てる
 カラスども空から 我を追い立てる

 移り気な街並み 全ては変わりぬ
 あの日の窓には 小鳥も歌い
 咲き誇る花には かぐわしき香り
 それをかぐお前の 輝く瞳よ
 香りかぐお前の 麗し瞳よ

 想い出は時には 我が心揺らす
 あの日に帰るなら 何を惜しむだろう
 あの日に帰るなら お前の窓辺へ
 あの日に帰るなら 何を惜しむだろう
 あの日に帰るなら 何を惜しむだろう
 何を惜しむだろう

9「鬼火」

 谷間に光りぬ 妖しき鬼火
 逃れるすべなど 我にはあらず
 我にはあらず

 迷いに慣れはて 怖れもあらじ
 喜び悲しみ 全ては夢か
 全ては夢か

 この谷を抜けて 我もまた行く
 全ては海へと 苦しみもまた
 全ては海へと 全ての墓へ

10「憩い」

 疲れに気付いて 身を横たえる
 さすらいの旅は はてなく続き
 歩みはひたすら 冷たい道を
 肩の荷はわずか 風に飛ばされ
 肩の荷はわずか 風に飛ばされ

 炭焼き小屋にて しばし休めよ
 体は憩えず 傷に震えし
 戦いの中 鍛えし心
 静けさの毒に 古傷痛む
 静けさの毒に 古傷痛む

11「春の夢」

 夢に見た花は 五月の野に咲き
 さえずる鳥たち 青空求めて
 青空高くへ

 朝の鶏鳴き 目を覚ませば
 部屋は冷たく 屋根ではカラスが
 部屋は冷たく 屋根ではカラスが

 誰が描きし 窓の木の葉
 我を笑うか 描きし人は
 真冬のさなかに 春を夢みし
 春を夢みし

 夢にみた愛は 乙女の愛
 いとけなきキス 幸せここに
 幸せここに

 朝の鶏鳴き 目を覚ませば
 我は一人で 夢を抱(いだ)きぬ
 我は一人で 夢を抱(いだ)きぬ

 目を閉じ思う 鼓動数え
 窓の木の葉は いつ緑に
 愛するお前と ともに笑う日は
 その日は来るのか 

12「孤独」

 流れ行く雲 空高くに
 樅(もみ)の梢に 風はすぎて

 我は歩みぬ ただ一人で
 道行く人は 笑みを浮かべて

 あぁこの静けさ! あぁこの光!
 嵐の中は 孤独ではなかった
 
 あぁこの静けさ! あぁこの光り!
 嵐の中は 孤独ではなかった

13「郵便」

 便りを告げる鐘
 なぜにはやる心
 なぜ

 なぜにはやる心
 なぜ なぜ

 我 虚しく待つ
 お前の村から
 便りを

 我 虚しく待つ
 便りを
 お前の村から
 便りを

 風の便りでも
 聴きたい
 お前の
 声
 
 愛するお前の
 便りを

 今さら何待つ
 お前の村から
 今さら

 今さら何待つ
 今さら
 お前の村から
 今さら

14「白髪」

 冷たき真白の 霜に馴染みて
 我は喜びぬ 歳老いたかと

 霜はすぐに融け 黒髪出でて
 若いままの我

 いつまで続く この道行よ
 一夜で歳老う それは幻

 この長い旅路 何も変わらず
 何も変わらず

15「からす」

 一羽のからす
 我とともに
 今日までずっと
 旅の共と

 影
 それは影
 我に添いて

 死の
 その時も
 我に添うか

 この旅尽きる
 その時まで
 からすよ我に
 添いて守れ
 からすよ我に
 添いて守れ

16「最後の望み」

 梢の木の葉に
 想い寄せつつ
 佇む我にも
 かそけき風が

 一枚の木の葉
 望みかけて
 風は戯れに
 木の葉を揺らす

 木の葉は
 地に落つ
 望みと共に

 ひたすら涙を
 ああ 望みつきぬ
 ああ 望みつきぬ

17「村にて」

 犬は吠えて鎖は鳴り
 眠りにつく村人は
 夢に見し宝もの
 夢でのみその手に抱く

 全ては夜露と消え
 さあ、さあ、この身に合わせて
 今を、今を、楽しみ生きて
 そしてまたも高く望み
 夢を見る

 犬よ、さあ、我を追え
 やすらぎに落ちぬよう
 夢に飽き
 眠りさえ
 ただ醒めて生きて行く

 夢に飽き
 眠りさえ
 ただ醒めて生きて行く

18「嵐の朝」

 激しい嵐 空を破り
 雲は乱れて 千切れて舞う
 千切れて舞う

 紅き火花が雲に走り
 これこそ朝 我の望み

 我の心を映したよう
 これぞ我が冬
 我の心
 冬の嵐

19「まぼろし」

 一筋の光り 我に親しみて
 我を惑わしぬ 妖し光もて

 あぁ なんて惨めな
 この妖し光
 夜と氷を そを 隠しぬ
 光は

 ……愛しき姿も

 ……まぼろし
 我 抱く

20「道しるべ」

 人目を避け行く
 この雪の道
 足取りも重く
 一人で歩む
 岩と氷抜け
 この道を
 ただ一人で

 それでもかつては
 共に歩んだ
 人目も避けず
 なのに今はなぜ
 荒れ地を行くのか
 愚かにもなお

 道しるべの立つ
 このひとすじは
 懐かし街へと
 続く細道
 それでもさすらう
 歩み止めずに
 止めずに

 また道しるべが
 我が前に立つ
 我の歩むべき
 ひとすじの道
 二度と帰らぬ

 また道しるべが
 我が前に立つ
 我の歩むべき
 ひとすじの道
 二度と帰らぬ

21「宿り」

 我が行く道は
 奥つ城(おくつき)へと
 我が宿りせん
 ついの住み家

 花束それは
 宿の誘い
 冷たき宿の
 誘(いざな)いなり

 我を拒むは
 何故にか
 脚萎え疲れ
 日も暮れしに

 我を拒むか
 ふたたびまた
 杖に縋りて
 歩み行こう

 杖に縋りて
 歩み去ろう

22「勇気」

 顔の雪など 振り落として
 胸の不安も 歌い飛ばせ

 心叫ぶも 何も聞かず
 心嘆くも 笑い飛ばせ

 楽しくやろう 全て忘れ
 神が居ぬなら 我こそ神

 楽しくやろう 全て忘れ
 神が居ぬなら 我こそ神

23「幻の太陽」

 幻の太陽 御空に留まりて
 我眺むしばし 我がもののごとく

 我は違(たが)えり そはすべてのもの
 我の失いし 二つに同じく

 とく沈み行けよ
 暗闇 慕いて 

24「竪琴弾き」

 退屈な音をたてて 竪琴を弾き村はずれ

 裸足で氷を踏みつ 虚しく情け求めて
 虚しく情け求めて

 誰も耳傾けず ただ犬だけが吠えたて
 それでもそこに立ちつつ 竪琴を弾き続ける
 竪琴を弾き続ける

 この道行 共に行かん
 汝(な)が音こそ 我が歌に

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2017年08月17日

伊佐山紫文29

『カンディード』ヴォルテール作 斉藤悦則訳 光文社古典新訳文庫
 こういう荒唐無稽でいかにもフランス的な奇書は古い訳で読んでてはダメだと改めて納得。
「オプティミズム(最善主義)」への反論として紹介されることの多い本書だが、それより何より、主人公を巻きこむ数々のバカバカしい不幸に目が離せず、それにまた、輪姦され腹を割かれて死んだはずの恋人が生きていたり、自分が殺した男が生き返っていたり、ご都合主義のオンパレードにもうんざりさせぬ、極上の筋運びに感嘆させられる。
 これはよく「哲学コント」などと言われるが、哲学はギミックで、著者は単なる軽いスラップスティックを書きたかったのではないかと、軽快な新訳を読みながら思った。
「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」
 最後の一文は胸に来る。
 そうだよ、その通り。
「自分の畑」と呼べるようなものを持てただけでも幸いじゃないか。
 耕すよ、早速。
「オプティミズム(最善主義)」への辛辣な皮肉を通して、人を「オプティミズム(楽観主義)」へと導く名作です。
 ちなみにリリアン・ヘルマン台本、レナード・バーンスタイン作曲のミュージカル(オペレッタ?)『キャンディード』はこれを原作にしている。
 こっちの出来映えは「?」。
 
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2017年08月17日

伊佐山紫文28

 確か私が小学校3年生の頃まで、うちの家には人力車があった。
 人力車の車庫もあり、出戻って来た伯母がふざけて私を乗せて庭を走ったりした。
 揺れに揺れて、こんな乗り心地の悪い乗り物があるのかと思った。
 その人力車は家に4台あったうちの一つで、医者だった祖父が往診に使っていたものだった。
 戦後の困窮の中、これだけは想い出に残していた。
 それが、ある日、学校から帰ってくると、なくなっていた。
 久留米の博物館に売ったのだという。
 家ではもう、メンテナンスが出来なくなっていたのだった。
 何か一つ、過去から続く大事なものがなくなったような気がして、泣けた。
 祖父は父が3歳の頃に亡くなっていたから、もちろん会ったことはない。
 ないけれども、医院だった母屋にのこる試験管やビーカーや様々な医療機器、膨大な文献、そしてこの人力車にその面影を残していた。
 祖母は、祖父がどれほど偉大だったか、そして家がどれほど由緒ある家だったか、それが敗戦とGHQの非道で没落し今にいたったか、繰り返し、繰り返し語り、貴方だけがこの家の希望だと泣きつかんばかりで、私はついに話に倦んで寄りつかなくなっていた。
 戦前に車夫をしていたMさんはうちが没落した後も機会あるごとに訪ねて来ては、祖母の繰り言の相手をしてくれていた。
 奥さんは愉快な人で、正月の餅つきの時には一人はしゃいで、民謡のような歌を歌い、みんなはそれをはやして大笑いするのだった。
 それが山菜採りに山に入って遭難し、若くして亡くなった。
 それからMさんはたまにうちの縁側に腰掛けて、人力車の車庫のあたりを眺めて過ごすようになった。
 戦前にあったあと3台の人力車は、それぞれ、祖母と伯母二人が使っていた。
 女学校の同級生達と川辺に人力車を並べ、着飾って眺める桜は、それはそれは美しかったと伯母は遠い目をして言う。
「あの頃はなんもかんも美しかった。あの頃がいちばん良かった」
 私は混ぜっ返して言う。
「便所はどうやった」
「ああ、もう、それを考えたら、今の方が絶対に良かバイ。あの頃の汚ねえこつ。水道も無えつきね。雨が降ると、すぐに川はあふれて、便所と井戸がつながって、赤痢、疫痢。ああもう、今が良い、いちばん良い」
 だと思う。
 それでも、失われたものどもを思い、取り返せない時、有り得たかも知れないもう一つの今に思いを馳せる。
 私にとって夏は、そんな季節である。
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2017年08月17日

伊佐山紫文27

 お盆の8月15日、日田の豆田では、町内を流れる城内川で精霊流しが行われる。
 うちでは蓮根畑からとってきた蓮根の葉にお供え物を積み、仏壇の火を移したロウソクを立てて、お鈴(りん)や平鐘を打ち鳴らしながら静々と川に向かい、そっと水面に浮かべる。
 まるで西方浄土に向かう魂のように、ロウソクの火は西へ揺れながら流れていく。
 昔は賑やかで、上流からお鈴の音がしてくると、今か今か、と出る時期を家族で思案し合ったものだった。
「もうそろそろバイ」
「いやあんまり早いと追い出すごつある」
「遅すぎると寂しかろ」
 と言った具合で、結局はお鈴の音の賑やかななか、精霊流しの群れに入って行く。
 城内川の川幅は数メートルしかないのだが、多くのロウソクの火を映した水面は華やかで、浴衣を着た娘さんたちの乱れ打つお鈴の音も賑やかに、豆田のお盆の夜は更けていく。
 あれはもはや夢の景色か。
 10数年前には、精霊流しをするのはうちだけになってしまっていた。
 そのころは、このままでは豆田の精霊流しが絶えてしまう、と妙な危機感を持ってお盆には必ず帰省していた。
 そのうちパラパラと復活する家も増えてきて、今では数件が流しているという。
 今年も私は帰省せず、精霊流しをやったかどうかは知らない。
 さだまさし(というかグレープ)の「精霊流し」が流行ったとき、曲のイメージと長崎の爆竹炸裂の精霊流しの実際とが懸け離れすぎという批判を聞いたものだが、私たちにとっての精霊流しはあの歌の通り、粛々と静々と行われるものだった。
 当時、父親の営む喫茶店にも「精霊流し」のシングル盤があり、クラシックやジャズしか聴かないはずの父がなぜ、といぶかしんだこともある。
 まさか、シングル盤の回転数を間違えて再生し、バリトン歌手の歌として聴いていたのではないとは思うが。
 その父も11年前に他界して、精霊として送られる側になった。
 6月の、ホタルの出始める時期に亡くなったため、友人や父を慕うファンらは「蛍忌」として命日に集まり、墓を掃除して酒を酌み交わしているそうだ。
 今もやっているかどうかは知らない。
 父も生きていれば87歳。
 みんな年をとった。
 父の葬儀の時に詠んだ歌を張り付けておく。

 古里の木犀匂う川野辺に 君も還りぬ精霊となりて
 
 これはもちろん、戦前の朝鮮の詩人金素月の「母さん姉さん」を下敷きにしている。
 試訳を張り付ける(もともと陰陽五行説の韻を踏んでおり、正確な訳は不可能)。

 母さん姉さん川辺に住もう
 庭にはキラキラ輝く砂が
 裏ではサラサラ木擦れの音が
 母さん姉さん川辺に住もう

 もう何十年も前、韓国ソウルの南山に登ったとき、公園のスピーカーから金素月のこの歌が大音量で響き渡り、私は落涙を堪えて立ち尽くした。
 それは、幼くして父親を亡くし、母さん姉さんたちとつましく川辺に暮らした幼い父のことが思い起こされたからだった。
 金素月も父と同じ、若くして認められ、そして破滅した。
 父は破滅も出来ぬまま、川辺の家で母親を看取り、同じ家で姉たちに送られた。
 金素月の絶唱はスミ・ジョー(曺秀美)の美声で聴くことが出来る。
https://www.youtube.com/watch?v=N4DhXg_1bpU&feature=related
 
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2017年08月15日

伊佐山紫文26

「フィガロの結婚」の後日談として「フィガロの決戦!」なる大人のコメディを書いたのは、もう4年も前の夏、暑い盛りに冷房のない部屋でベトベトの汗に腕に貼り付く楽譜と格闘しながら書き上げた。
 舞台はナポレオンのフランス軍に占領されたセビリア。
 ナポレオンに心酔する伯爵と、抗仏ゲリラの頭目になったフィガロ、ゲリラになりたいケルビーノのそれぞれの思惑が絡み合うなか、女たちの平和を求めて逡巡する姿を「フィガロの結婚」の音楽に載せて歌い上げた。
 幸い、日本劇作家大会2014豊岡大会での初演は好評で、東京公演も打診されたのだが、これは諸般の事情により実現しなかった。
 その後、西宮、大阪と二回の再演を経て、歌と芝居による舞台という、今の夙川座のスタイルを決定する作品となった。
 この作品のテーマは「戦争と平和」だが、最初からそうしようと思ったわけではない。
 終戦の季節である夏がそうさせたのか、よくわからないが、とにかく、フィナーレは平和を歌い上げるものにしようと思いつき、そこから逆算して物語を創り上げた。
 その過程でスペインの歴史を調べ、そのあまりの悲惨さに気が滅入った。
 ルネサンスがないというのは、こういうことなのだ、と。
 たとえば、当時のヨーロッパで、拷問人にスペイン人が来たと聞くと、罪人は震え上がって自殺したという。
 真偽の程はわからないけれど、異端審問が最後まで残っていたスペインならではの逸話だと思う。
 そのスペインに「近代」をもたらしたのは、間違いなくナポレオンだった。
 だからこそスペインの貴族たちはナポレオンを支持したのだし、そうでなければ占領など出来るわけがない。
 ただし「近代」が良いことずくめであるはずもない。
 またナポレオンの私利私欲も明らかとなってくる。
 ここで「小さな戦争」を意味するスペイン語の「ゲリラ」が登場する。
 世界史に「ゲリラ戦」なる戦争が登場した瞬間である。
 私の「フィガロの決戦!」では、セビリアのゲリラの頭目となったフィガロと、ゲリラ戦に参加したいケルビーノのそれぞれの思いが二重唱で歌われ、見せ場の一つとなっている。
 で、芝居は「平和」を歌い上げるフィナーレで大団円を迎えるのだが、現実は違う。
 ナポレオン占領時代がマシだったと思えるような泥沼の内戦へと突入し、血で血を洗う、汚物で汚物を拭うような惨状がスペイン中を覆うことになる。
 この惨禍はファシズムと共産主義の対立にまで、つまり、つい最近まで受け継がれ、スペインの近代化を決定的に遅らせることになる。
 このような今の視点からすれば、ナポレオンが去ったからと言って、「平和」を言祝いでいられるわけはないのだが、そこはそれ、芝居だから、ホンの一時の幻想として、フィナーレでは高らかに平和を歌い上げた。
 モーツァルトの音楽は本当に「平和」にこそふさわしいと、観客の誰もが思ったことだろう。
 初演では拍手が鳴り止まず、誰も席を立たず、仕方なく、このような舞台では異例の「アンコール」まで歌うことになった。
 終戦の日を記念して、フィナーレの歌詞を張り付けておく。

フィナーレ「平和の鐘を打ち鳴らせ」

伯爵
「空は澄み 風は薫り」
伯爵夫人
「梢鳴く鳥 軽やかに 軽やかに」
全員
平和が来た 争いも、憎しみも
平和な世界が訪れ 平和な世界 いくさ無き
さあ行こう さあ行こう
平和の鐘の音 打ち鳴らし進め 打ち鳴らし行け
平和の鐘を
歌、歌え 踊り、踊れ 平和の鐘、打ち鳴らして
許しの鐘の音 すべてを許し
踊り明かそう
すべてを許し
平和な世界
踊ろう 歌おう 踊ろう
 
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プロフィール
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学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

< 2017年08>
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