2017年07月30日
伊佐山紫文6
昨年から今年の初めにかけて、ある作曲家のためにオペラ台本を書き上げた。
台本としては都合二回、全面的に書き直し、結局これは捨てて、新たに「叙事詩」という形で作曲家に渡した。
これをたたき台に「ここに長めのアリアが欲しい」「ここに重唱が欲しい」という作曲家の依頼に応えて書き足していき、数ヶ月かけて叙事詩的な台本が出来上がった。
私は一つの台本を書き上げるのに、ほとんど一日、あるいは数日しかかけないから、作曲家との仕事がどれほどの手間かわかろうというものだ。
それで痛感したのは、確かに過去の一時期「詩」と「音楽」は相思相愛の恋に落ち、蜜月を経て「オペラ」という子供を産みだし、育てたのではあるが、もはやこの夫婦は熟年離婚とはいかないまでも、互いの興味も関心も別の、冷め切った関係にある、ということ。
そんな夫婦が「もう一度子供を作ろうよ」と歩み寄ろうとするのである。
いかに「バイ○グラ」の力を借りようと……は冗談ではあるが。
オペラとまでは行かずとも、歌曲にもそれなりの問題がある。
そもそも現代詩はフリー・ヴァースが前提で、つまり最初から「音楽」を捨てている。
かつては「韻律」、つまり「音楽」を裏に潜めていたのが詩であったのに。
その韻律を奴隷の鉄鎖として打ち砕き、口語自由詩を歌い上げたのが戦後という時代であり、私たちの一世代前の詩人達であった。
まだ私が30代の新進気鋭(?)の物書きだった頃、父親の高校時代の短歌を読む機会があり、その煌めくような語感・語才にうちひしがれた。
「なんで、短歌の道に行かなかったの?」
「あんなものは約束だらけでつまらん」
俳句で言う季語のように、約束があるからこそ煌めく言葉というものもあるのだが、そういうのをうち捨てて開けたのが現代詩の道なのだろう。
まさに現代詩とは「短歌的叙情の否定」(中野重治)の上に立つ、プロレタリア詩の嫡子なのである。
現代音楽もまた調性を否定したと言う意味で、フリー・ヴァースの現代詩と同じような場所に立っているのではないか。
現代詩と現代音楽とが再び出会い、何かを残すことが出来るのか、私も組曲『日本レクイエム』を出品したイベント「こころの芽」(主催:日本女性作曲家連盟阪神支部)が来月8月6日(日)兵庫県立芸術文化センターで開かれる。
心より楽しみにしている。
「日本レクイエム」
『初め』
君は今 眠りに落ちて
大いなる 初めに帰る
ああ! 君は 初めに帰る
幼き日 時の熟しに
身をゆだね ただ走りゆく
大いなる 時の熟しよ
ふと聞けば 風のそよぎに
神わびて その声のする
そこにいる そこにある君
我もまた 初めに帰り
大いなる 眠りに落ちん
ああ! 我も 初めに帰る
ああ! 君と 初めに帰る
大いなる 時の熟しと
『雲』
数尽きぬ 想い出は
心より 溢れ出ぬ
いざさらば 白き雲
青空に 消えゆきぬ
地の底の 同胞(はらから)も
仰ぎ見よ 白き雲
我もまた 去りゆく身
雲送り ただ涙
数尽きぬ 想い出に
雲送り 一人佇む
『幸』
古(いにしえ)の 悲し調べに
人泣きぬ ただ人泣きぬ
現世(うつしよ)の 悲しさだめに
人泣きぬ ただ人泣きぬ
泣きてあれ 悲しみの子よ
今日はただ 悲しみの日ぞ
そしてまた この世の幸を
汲みつつも 在りし日の幸
忘れじや いつの世までも
台本としては都合二回、全面的に書き直し、結局これは捨てて、新たに「叙事詩」という形で作曲家に渡した。
これをたたき台に「ここに長めのアリアが欲しい」「ここに重唱が欲しい」という作曲家の依頼に応えて書き足していき、数ヶ月かけて叙事詩的な台本が出来上がった。
私は一つの台本を書き上げるのに、ほとんど一日、あるいは数日しかかけないから、作曲家との仕事がどれほどの手間かわかろうというものだ。
それで痛感したのは、確かに過去の一時期「詩」と「音楽」は相思相愛の恋に落ち、蜜月を経て「オペラ」という子供を産みだし、育てたのではあるが、もはやこの夫婦は熟年離婚とはいかないまでも、互いの興味も関心も別の、冷め切った関係にある、ということ。
そんな夫婦が「もう一度子供を作ろうよ」と歩み寄ろうとするのである。
いかに「バイ○グラ」の力を借りようと……は冗談ではあるが。
オペラとまでは行かずとも、歌曲にもそれなりの問題がある。
そもそも現代詩はフリー・ヴァースが前提で、つまり最初から「音楽」を捨てている。
かつては「韻律」、つまり「音楽」を裏に潜めていたのが詩であったのに。
その韻律を奴隷の鉄鎖として打ち砕き、口語自由詩を歌い上げたのが戦後という時代であり、私たちの一世代前の詩人達であった。
まだ私が30代の新進気鋭(?)の物書きだった頃、父親の高校時代の短歌を読む機会があり、その煌めくような語感・語才にうちひしがれた。
「なんで、短歌の道に行かなかったの?」
「あんなものは約束だらけでつまらん」
俳句で言う季語のように、約束があるからこそ煌めく言葉というものもあるのだが、そういうのをうち捨てて開けたのが現代詩の道なのだろう。
まさに現代詩とは「短歌的叙情の否定」(中野重治)の上に立つ、プロレタリア詩の嫡子なのである。
現代音楽もまた調性を否定したと言う意味で、フリー・ヴァースの現代詩と同じような場所に立っているのではないか。
現代詩と現代音楽とが再び出会い、何かを残すことが出来るのか、私も組曲『日本レクイエム』を出品したイベント「こころの芽」(主催:日本女性作曲家連盟阪神支部)が来月8月6日(日)兵庫県立芸術文化センターで開かれる。
心より楽しみにしている。
「日本レクイエム」
『初め』
君は今 眠りに落ちて
大いなる 初めに帰る
ああ! 君は 初めに帰る
幼き日 時の熟しに
身をゆだね ただ走りゆく
大いなる 時の熟しよ
ふと聞けば 風のそよぎに
神わびて その声のする
そこにいる そこにある君
我もまた 初めに帰り
大いなる 眠りに落ちん
ああ! 我も 初めに帰る
ああ! 君と 初めに帰る
大いなる 時の熟しと
『雲』
数尽きぬ 想い出は
心より 溢れ出ぬ
いざさらば 白き雲
青空に 消えゆきぬ
地の底の 同胞(はらから)も
仰ぎ見よ 白き雲
我もまた 去りゆく身
雲送り ただ涙
数尽きぬ 想い出に
雲送り 一人佇む
『幸』
古(いにしえ)の 悲し調べに
人泣きぬ ただ人泣きぬ
現世(うつしよ)の 悲しさだめに
人泣きぬ ただ人泣きぬ
泣きてあれ 悲しみの子よ
今日はただ 悲しみの日ぞ
そしてまた この世の幸を
汲みつつも 在りし日の幸
忘れじや いつの世までも

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