「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2019年08月31日

伊佐山紫文379

最近、年を取ったなぁと思うのは、とにかく、目がつらい。
 息子の夏休みってこともあって、一月ビデオを止めてみたが、それでも駄目だ。
 とにかく、視覚に関わるどこかが慢性的に疲れている。
 自然科学、社会科学、人文科学の最先端の学説や新しい文学の動向も知りたいのだが、何せ、目が言うことをきかない。
 こうやって老いていくのか、と、ふと、学生の頃の先輩たちの会話を思い出した。
 講座の教授がまた何か新しいことをやり始めたことを揶揄して、
「(定年を前に)そろそろ仕事のまとめに入りゃいいのに」
 今更インプットでもなかろう、という意味なのだろうが、その時の教授は今の私より若かった。
 確かにね、と思う。
 今更、ハイデガーを読み、進化倫理学を読み、流行っているらしい現代中国のSF小説を読んだところで、個人的な好奇心を満たす以上の何がある。
 それより、これまでの自分の仕事をまとめに入った方が良いのではないか。
 同じ時間を使うなら、インプットより、アウトプットなのではないか。
 読む、よりも、まず、書け、と。
 先輩たちの話も分からんでもないが、学問の根底にある知的好奇心というものの本質を見誤っていると思う。
 人間ってのは「裸のサル」である以上に、「サルの子供」なんだよ。
 じっとしていられない、退屈に耐えられない、常に新しい刺激を求める。
 サルのアルファ雄のようにどっしりと構えていられないのが種としての人間なんだ。
 じっとしていられないのが人間なんで、とくに学者だの物書きだのは、その傾向が強い。
 なにより、あの時の諸先輩方はめでたくサラリーマンに収まったが、教授は今でも現役で新著を上梓しておられる。
 とはいえ、目が……
 読むと書くと、どっちに使うか。
 あと二つ、目が欲しいところだ。
2019年08月31日

伊佐山紫文378

久しぶりにハンバーグを焼いた。
 ところが、息子は、
「マクドとかの普通のハンバーグは茶色なのに、なんでウチのは白いの?」
 などとぬかす。
 そりゃ、鶏胸肉を使っているからに決まってるでしょ。
 もちろん、鳥胸だけじゃパサパサになるから、豚ミンチも入れてるよ。
 それでも、マクドとかの、もともと赤身の牛肉のハンバーグとは色が違って当然でしょ。
「だったら、牛肉を使ってよ」
「牛肉と鶏肉と、一番の違いはなんだと思う?」
「味?」
「それはもちろん。それ以外では?」
「値段」
「それもある。と言うか、なんで値段が違ってくるか分かるか?」
「わからん」
 そもそも、牛と鶏とでは成長の速度が違いすぎる。
 エネルギー効率が全く違う。
 肉1キロ増やすのに、牛は鶏の10倍の飼料がいる。
 10倍も効率が悪いんだよ。
「10倍! じゃ、値段も10倍違うの?」
 そういうわけじゃない。
 この鶏胸肉は百グラム58円、牛の挽肉は安ければ300円くらい、まあ、5倍くらいかな。
 流通とか、そういった大人の事情があるんでしょうよ。
 とにかく、動物性タンパク質を地球に優しく食べようと思ったら、鶏胸肉なんだよ。
「びっくりドンキーの牛肉100パーセントのハンバーグ、また食べたいなぁ」
「お父さんの本が売れたらね」
「またそれかぁ」
 とか言いつつ、結局、焼いた分、全部、食ってしまった。
 冷凍して弁当のおかずにするつもりで十数個焼いたのに。
「このキノコソースが旨すぎるんだよ」
 と言うより、油っこくないから食えてしまうんだよな。
 まあ、新学期、鶏胸肉で乗り切ってくれ。
2019年08月28日

伊佐山紫文377

昨日は北海道土産を届けて回った。
 かつては「虚礼廃止」とて、そういうことを止めていたのだが、もういい歳になり、こういうことでも無い限り人間関係の維持が難しくなりつつあることもあって、土産物を持ってお得意先を回った。
 で、夕方は夙川座の今後の方向性を決めるような大事な打ち合わせ。
 まだ詳細は明らかには出来ないけれど、実現すれば誰もがアッと驚く舞台になると思う。
 課題・制約はまだまだあるけれど、劇作家は、そういうものがあればあるほど燃える人種である。
 とにかく関西人のポテンシャルを信じて前向きに取り組みたいと思う。
 で、打ち合わせが終わって、旨い日本酒が飲みたいという浅川座長のリクエストがあったので、かつての行きつけの小料理屋へ。
 東北の料理が主体で、ここの「いぶりがっこ」や「ホヤ」を目当てによく通ったものだった。
 今回は20数年ぶりか。
 板さんその他のスタッフは若い子らに代わっているものの、料理の味はそのままで、シメには久しぶりに本物の稲庭うどん。
 本物は照りが違う。
 のどごしが違う。
 日本酒に、合う。
 この20年、両親の遠距離介護や怒濤の子育ての中で薄くなっていた繋がりを、少しずつ、夙川座で取り戻していきましょう。
2019年08月24日

伊佐山紫文376

『いさやん蝦夷地で考えた』 その二
「道民は偉大だ」
 地図を冷静に眺めれば無謀だと分かるのだが、地名だけを聞いているとなんとなく行けそうな気がしてくるから恐ろしい。
 札幌を朝出てお昼に旭川の旭山動物園を見学し、富良野を巡って帰ってくる。
 日帰りのバスツアーだが、その無謀さは参加してみないと分かるまい。
 で、言いたいのは、その無謀さではなく、無謀を無謀と思わぬ精神力である。
 とにかく道が真っ直ぐすぎる。
 地平線の向こうまで真っ直ぐに続く「町道」。
 山道なんてもんじゃない、原生林を突っ切って進む得体の知れない道。
 ときおり見える白い花畑は蕎麦を植えているのか。
 それにしても本州の広葉樹林とは全く異質な、恐ろしいまでの緑がびっしりと、土が見えないほどに、まさに今を盛りと蔓延っている。
 これはいったい、なんだ。
 日本人が「自然」と聞いて思うような穏やかなものじゃない。
 一歩足を踏み入れれば猛然と襲いかかってくるような、なにか獰猛な、人間とは異質な「nature(自然)」である。
 また、モエレ沼、この畏怖すべき気色の悪さはなんだ。
「釣り禁止」
 って、こんなところで釣りなんかしないだろ。
 natureが釣れたらどうするんだ。
 こんなところを切り開いて札幌のような大都会を作り上げた道民たちよ、あなたたちは偉大だ!
2019年08月22日

伊佐山紫文375

家族で北海道へ行ってきた。
 と言っても、浅川座長とではないから誤解無きよう。
 ニアミスはあったものの、それぞれがそれぞれの家族と企画した旅行である。
『週刊文春』にタレこんで小銭を稼ごうなどと不埒なことを思わぬよう。
 ここでは札幌に三泊して思ったこと、感じたこと、考えたことを徒然なるままに書き留めておこうと思う。

『いさやん蝦夷地で考えた』 その一
「疾走せり女子」
 地下街でパフェを食しようと行列に並んでいると、後ろに並んだ女の子二人がとにかく大声でしゃべる、しゃべる。
 それも結構微妙な話を。
 どうやら同じ職場で、しかもその職場がメイド喫茶らしく、それぞれが源氏名で呼び合っている。
 職場は「学校」、同期は「同級生」、職場旅行は「修学旅行」と隠語を使っているのだが、内容は丸わかりで、結構エグい。
「同級生」がうっかり本名を漏らしてしまったが故にどんな目に遭ったか、などなど。
 色んなことはあるものの、
「やっぱり、衣装には萌えるよね」
「そう! あれ着れるだけで学校最高」
 うっかり関西弁で書きそうになってしまうが、堂々たる標準語である。
 店に入ってからも、道民女子たちの口は決して閉じない。
 札幌はとにかく女子の声に満ちている。  
 女子同士ではもちろん、相づちを打つだけの男を前に、しゃべる、しゃべる。
 観光バスで旭川へ行ったのだが、車中、本土からの観光客ばかりになると、今度は男女の関西弁だけが聞こえてくる。
 黙ってはいられない関西人たちが静かになったと思ったら、寝ている。
 男女をとわず「しゃべり」な関西人とは違い、道民はやたら女子だけがしゃべりまくっている。
 そしてどんな職場でも働いている。
 産業道路なのか、モエレ沼公園横を巨大なダンプカーが猛スピードで駆け抜けていく、それを歩きながら眺めていると、運転手に女子が多いことに気づく。
 あれも女子、これも女子。
 女子たちがダンプを疾走させ、北の大地を駆け抜けていく。
 あまり舗装状態の良くない道を、車体を揺るがせながら女子の駆る巨大ダンプが疾走する。
 母子家庭の人口比では高知と一二を争い、喫煙率では揺るがぬ一位を誇る道民女子である。
 ダンプなど乗りこなして当然、なのだろう。
2019年08月22日

伊佐山紫文375

「予言って当たったことあるの」
 う~ん、またややこしいことを。
 予言と言っても、色々ある。
 例えば、いつ日食、月食が来るかを当てること。
 それから、いつ戦争が起こるか当てること。
 どちらも予言だけど、自然現象と社会現象では意味が違う。
 自然現象は過去のデータを利用して法則を導き出すことで、かなり正確に予言することが出来る。
 ニュートンはそれをやった。
「重力を発見した人だよね」
 ただ、ニュートンは自然科学者であると同時に、魔術の研究家でもあった。
 当時は社会現象と自然現象の区別がなされてなかったんだ。
「魔女狩りとか」
 そう。
「なんか、怪しげなものをグツグツ煮込んでるような」
 まさにね。
 あれは、今で言う「漢方」みたいなものかな。
 魔女狩りは、民間の知識、知恵、みたいなものを「魔術」だとして、客観的な「科学」が駆逐していく課程で起きたものだと思うよ。
 数値化できない、再現性のない、経験的な知恵は「魔術」だとして退ける。
 そういう「魔術」を操る女たちを「魔女」として殺す。
 科学者たる男たちがね。
 そういう暴力の上に近代科学は成立したんだ。
「予言」が当たるか当たらないか、今では科学的な予言はもう予言とは言わない。
 ただの予測。
 予言と言っても、それが何に対するものかを明らかにしなきゃ、当たるも当たらないもない。
「そっか~」
 分かってるんだか、どうなんだか。
2019年08月22日

伊佐山紫文374

台風一過、と言っても良い陽が射してきた。
 蝉も鳴き始め、風も心地よい。
 数日前から聞き始めたクルト・ザンダーリン(ザンデルリング)のボックスもシベリウスの佳境に入ってきた。
 単一楽章形式の七番の透明な響きが北欧の森を彷彿とさせつつ、交響詩「夜行と夜明け」が余韻を渺々と響かせて終わった。
 さて、次は何をかけよう。
 とにかく、家に子供がいるとまとまった仕事が出来ない。
 ゲームやパソコンから引き離して勉強させるのが結構な一仕事で、難しい本や原書など読んでいられない。
 そうして宿題をやらせていると、息子が、突然、
「ブラックホールの中って、物理法則が通用しないって本当?」
 またややこしいことを。
「通用しないというか、光や電磁波でさえ出てこれないブラックホールだから、その中のあらゆる事象が観測不可能なんや。やからブラックホールのことをイベントホライズン、事象の地平線と言ったりする。最初はアインシュタインの一般相対性理論から導き出される純粋に理論的な解やったんやけど、実在することが分かってきた」
「ブラックホールに入ったら、人はどうなるの?」
「人間なんて、ナノミリ以下に凝縮されるだろうから、生きてはいないよ」
「ナノミリ……」
「十億分の一ミリ以下ってこと」
「物理法則も何も」
「そう、ここにある物理法則は事象の地平線まででしか通用しない。その向こうでどんな法則が働いているかは、こっちにいる人間には分からない」
「嫌だなぁ、太陽がブラックホールになったら」
 そんな何十億年も先のことより、そろそろ夏休みの終わりを心配しろよ。
 まだ読書感想文も書けてないんだし。
2019年08月22日

伊佐山紫文373

夏の揚げ物は暑苦しい。
 それでも息子が「トリカラ、トリカラ」とうるさいので週に一度は鶏のもも肉を揚げている。
 昨日の夕食もトリカラで、味付けも一部息子がやった。
 そうすると、とにかく味が濃くなる。
 当然だが油っこいし、スパイスの効かせすぎ。
 夕食には酢に浸して南蛮漬け風にしたのを二切れほど食べて、あとは高野豆腐の煮物。
 一緒に素揚げしたカボチャも数切れ。
 これで充分。
 夏は食が細る。
 昼は冷やしうどんと納豆で終わりだし。
 昔はゴーヤーチャンプルーが夏のお昼の定番だった。
 夏休みの息子と一緒にお昼をするようになってから、この五六年くらい作ってないんじゃないかな。
 あんな苦いもの、作ってもどうせ子供は食わんし。
 そういえば、ずっとずっと昔はゴーヤーのことを茘枝(れいし)って言ってたらしい。
 私たちの子供時代にはすでに「ニガウリ」になり、NHKの朝ドラ『ちゅらさん』以来、「ゴーヤー」になった。
 そもそも「ニガウリ」は漢語「苦瓜」の訓読みで、沖縄では「ゴーヤー」と音読みしていたのがそのまま入ってきた。
 今でこそ沖縄産のゴーヤーが本土でも流通しているが、外来種のウリミバエを絶滅さすまでは本土への持ち込みは禁止されていた。
 このウリミバエは、農薬ではなく不妊虫放飼という方法で絶滅させたことが知られている。
 この絶滅作戦の陣頭指揮を執った伊藤嘉昭先生は『社会生物学』(E.O.ウィルソン)の監訳者でもあり、『虫を放して虫を滅ぼす 沖縄・ウリミバエ根絶作戦私記』(中公新書)という本の著者でもある。
 私はこの本、学生時代に楽しく読んだが、諸先生方の反応は今ひとつだったことを憶えている。
 おそらく、不妊虫を作るのに放射線を使うことが忌避されたのだろうし、何より、この伊藤先生、共産党の科学者組織の重鎮だった。
 何をやっても胡散臭く感じられたのだろう。
 そもそも当時、共産主義者が「社会生物学」ってのもおかしな話だったし。
「あいつ、何やってんだ」
 ということだったのかもしれない。
 さて、台風が来る前にゴーヤー買って来よう。
2019年08月07日

伊佐山紫文372

『進化心理学から考えるホモサピエンス』
アラン・S・ミラー、サトシ・カナザワ著 伊藤和子訳
パンローリング株式会社
 最近、認知心理学者と進化心理学について話す機会があり、彼が言うには、
「上手いこと言うなぁ、とは思いますけどね」
 確かに、進化心理学は人間の本性について、実に「上手いこと言う」のである。
 ただし、この「上手いこと」の背後には、数理モデルの構築があり、それに基づいた調査や実験があり、統計処理がある。
 本書を背後で支える論文群を私がナマで見せられたとて、そこにある数式や数字が何を意味しているか、ちんぷんかんぷんだろう。
 そういうナマの論文のエッセンスをわかりやすく、読みやすくまとめてくれたのが本書である。
 で、この本のエッセンスは、男と女はどちらも自分の遺伝子を残そうと努力するが、その努力の方向性や方法はまるで違う、と言ったところ。
 例えば、男は目の前の女が自分に好意を持ってくれていると思い込みがちだが、この「思い込み」は外れたとて単に気恥ずかしいだけで、特にリスクは無い。
 それより本当に好意を持ってくれているのに気づかず、せっかくの繁殖機会を逃すリスクの方が重大である。
 男の「思い込み」は進化の中で獲得してきた戦略なのである。
 女の場合はどうだろう。
 女が同様の「思い込み」を持ったとする。
 で、男と同様の行為に及んだとする。
 結果は誰が父親か分からぬ妊娠であり、つまり父親からの援助の得られない子育てであり、これは不首尾に終わる確率が高くなる。
 女にとっては「思い込まない」ことが進化的な戦略なのである。
 男は「思い込み」でアタックを繰り返し、女は「思い込まず」冷静に選ぶ。
 これはほとんどあらゆる哺乳類に見られる行動であり、もし雌が雄を選ぶのでなかったら、人間の文化そのものが消えてしまうだろう。
 なんだかフロイトの文明論を彷彿とさせるけれども、精神分析への言及は一切無い。
 手軽な入門書としてご一読をお薦めする。
2019年08月07日

伊佐山紫文371

『習慣の力〔新版〕』
チャールズ・デュヒッグ著 渡会圭子訳
ハヤカワノンフィクション文庫
 待ちに待った文庫化。
 ここで言う「習慣」は英語の「habit」、生物学を専攻した私には「習性」の方がぴったりくるし、場面によっては「依存」とか「悪癖」と訳されたりもする。
 とにかく、そういう、「習性」だったり、「依存」だったり、「悪癖」だったりする「習慣」に人間は支配されている。
 その支配からいかにして脱し、さらには利用するか。
 本書では豊富な具体例で示されている。
 もしあなたが何か問題を抱えていたり、それほどではなくとも、今よりも少しだけ良い生活を望んでいるなら、ランチを二回おにぎりに代えてでも、本書を買って読むべきだ。
 構成が非常に巧みなので面白く一気に読める。
 アメリカにはもの凄いライターがいたもんだ。
2019年08月07日

伊佐山紫文370

ビデオ『テルマ』平成29年2017年ノルウェー=フランス=デンマーク=スウェーデン
監督:ヨアキム・トリアー 脚本:エスキル・フォクト、ヨアキム・トリアー
 敬虔な女の子に訪れる残酷な初恋。
 その敬虔さというのが実は超能力を押さえ込むためで……
 ラストは清々しいというのか、色々と考えさせる。
★★★★☆

ビデオ『LBJ ケネディの意志を継いだ男』平成28年2016年アメリカ
監督:ロブ・ライナー
 アメリカの選挙制度を知らないとサッパリ。
 少しでも知っていればかなり面白い。
★★★☆☆

ビデオ『女と男の観覧車』平成29年2017年アメリカ
監督・脚本:ウディ・アレン
 ウディ・アレン健在。
 スタイリッシュで、ダークで、悲しくて。
 結局は現実に帰って行くほかはない、元女優の狂騒のひと夏を見事に描ききっている。
 ケイト・ウィンスレットの長台詞が名演技過ぎて、マジで『タイタニック』の頃のことを言っているのかと思ってしまう。
 ただ、若い人にはダークすぎるし、中年にはリアリズムがすぎて救いがない。
 作品としてはよく作られているけれど、好き嫌いは分かれるだろう。
 ウディ・アレン、82歳で凄すぎ。
★★★★★
2019年08月02日

伊佐山紫文369

ビデオ『サバービコン 仮面を被った街』平成29年2017年アメリカ
監督:ジョージ・クルーニー
脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン、ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ
 白人だけの虚飾の街「サバービコン」で起きた強盗殺人。
 黒人が越してきたからだとかなんとか。
 これが実は……
 まるでドストエフスキーの『罪と罰』のような緊張感、は無い。
 登場人物がひたすらバカだから。
 何の思想もないし。
 それなのにラストに感動してしまうのはやはり脚本が良く練られているから。
 コーエンきょうだい(としか書けなくなったね)はやっぱり上手い。
 人間観が深い。
 ジョージ・クルーニーも監督や製作が板についてきた。
プロフィール
notebook
notebook
学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

< 2019年08>
S M T W T F S
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
カテゴリ
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人