「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2019年11月25日

伊佐山紫文ラジオ出演


ラジコというネット放送で聞くことができます。

ダウンロードがお手数ですが、無料ですので、聴いてやろうかという方はぜひ「ラジコ」で検索してください。

番組は、

大阪のFMOH!「おしゃべり音楽マガジンくらこれ!」

11月24日放送分 です。

2019年11月18日

伊佐山紫文454

『孔子』
和辻哲郎著 岩波文庫
 小さな名著。
 フィロロギー(フィロロジー、書誌学)の方法に拠りながら、『論語』を読み解いていく。
 その部分もスリリングだが、やはり孔子の「死」を論じた最終章が最も興味深い。
 孔子は、仏陀やキリストやソクラテスとは違い、普通に死んだ。
 しかも、後世の孔子伝の記者たちは『論語』にある孔子の死をあからさまに無視している。
 孔子の死は何らの修飾を受けることもなく、壮大な物語を構成することもなかった。
 それが結果的に『論語』を単なる語録に止めたのか、著者は明言しない。
 ただ、シナに生まれ、徹底的に現世的であった禅宗との比較を仄めかすのみである。
 何度読み返しても気づくところの多い、小さな名著である。
2019年11月18日

伊佐山紫文453

『暴力の人類史 上下』
スティーブン・ピンカー著 幾島幸子・塩原通緒訳 青土社
 上下巻で総ページ数1200を超える大著にして名著中の名著。
 文庫化しないかと待っていたのだが、待ちきれなくて図書館で借りてきた。
 それにしても、邦題は酷い。
 原題をそのまま訳せば、
『我々の本性の中の良い天使 なぜ暴力は減り続けているのか』
 人類史を観たとき、たとえ直近の二つの大戦があったにせよ、暴力は減り続けている。
 それはなぜなのか?
 認知・進化心理学者でもあるピンカーはまず歴史をひもとき、そして心理へと向かい、最終的にはゲーム理論で締めくくる。
 暴力の減少は、神の意志でもなく、宇宙の不思議な力でもなく、この世の内部で、単純なアルゴリズムの結果だとほのめかす。
 非常に説得力があり、マット・リドレーの、これはハヤカワ文庫に入っている、
『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』
 と合わせ読みたい。
 ピンカーの未訳の最新作、
『Enlightenment Now』(今を照らす(啓蒙する))
 の邦訳も早く欲しいなぁ。
 待ちきれずにペンギンから取り寄せて少しずつ読んでるけど。
 ほとんど同時期に出た、ジャレド・ダイアモンドの大著、
『Upheaval: How Nations Cope with Crisis and Change 』
 は、もう、
『危機と人類 上下』
 として、つい最近邦訳が出た。
 原書はまだ半分も読めてないのに。
 日経だからすぐに文庫になるかも知れんが、これも待ち切れん。
 買って読むかな。
2019年11月18日

伊佐山紫文452

人が楽観よりも悲観を好むのは、マスコミに現れる論調を観れば明らかだろう。
 この50年、あくまでも相対的にだが、国は戦争をしなくなったし、人は人を殺さなくなったし、レイプしなくなったし、殴らなくなった。
 これは数字から分かる。
 けれど、そんな根拠のある楽観論を一言でも口にすれば、マスコミからは追放される。
 食いっぱぐれる。
 それが嫌なら、世界は第二次世界大戦前に似てきたし、温暖化で滅びる寸前にあるし、人類は凶暴化してきたし、子供はボンクラでイジメ地獄にいるし……などと根拠のない悲観論を吐き続けるしかない。
 とにかく人は根拠のない悲観論が大好きなのだ。
 もう、死んでもかまわないほど。
 と言うより、根拠があろうがなかろうが、悲観論を信じる人々が生き残ってきたのだ。
 我々ホモ・サピエンス・サピエンスは、決して情報化社会に適応しているわけではない。
 我々が我々になった時代、新石器時代は、男の死因の(計算の仕方にも拠るが)2割から4割が他殺というような、今から考えれば殺伐とした社会である。
 女の他殺の死因が低いのは単に戦利品として生かされただけであって、決して男に比べて幸福だったわけではない。
 それに、特に古代ギリシャの好戦的なポリスで明らかなように、女児は生まれるとすぐに殺された。
 戦士にならないから、育てても無駄だからだ。
 女は他のポリスからぶんどってくるものであって、自分たちが育てるものではなかったのだ。
 原始時代がユートピアだったというのは幻想であり、我々は、小集団が殺し合う中で、もちろん文字もない時代を何万年も生き延びてきたのである。
 文字情報、いわんや数字など、その時代の誰が信じよう。
 いや、信じるものはいただろう。
 そして信じるものから順に死んでいった。
 なぜなら、その時代の文字情報や数字など、大まかな事実は伝え得ても、正確に将来を見通すことは出来なかったから。
 で、私が常々疑問に思っているのは、イソップ寓話にある「オオカミ少年」の教訓である。
 大抵は「嘘つきは信用されなくなる」との教訓で終わっているのだが、これっておかしくはないか?
 ギリシャ語の原典は失われてしまったから、今に伝わるもので議論するしかないが、この結論は明らかにおかしい。
 この寓話には異なる系統があって、
1「羊飼いがオオカミに食われる」
2「羊がオオカミに食われる」
 の2種類の結論があるだが、オオカミが羊飼いだけを食って帰ることがあるだろうか。
 実際には、羊飼いも羊も両方食われてしまったのではないか。
 よしんば生き残った羊飼いも、というより、羊を共有していた集落は冬を越せずに全滅していたのではないか。
 羊は遊牧民の重要な食物であり、特に冬を越すためにはその干し肉が欠かせない。
 オオカミはその羊を狙うから恐れられたのだ。
 オオカミに羊を食われた集落は全滅する。
 その大事な羊を守るのに、嘘つきの少年を使った。
 何度も嘘をついているのにもかかわらず、使い続けた。
 あげく、少年の言を信用せず、全滅した。
 ここから得られる教訓は、まず、
「人を選べ」
 であり、そうでなくば、
「どんなに根拠がなかろうと、警報(悲観論」には備えよ」
 と言うことではなかったか。
 その血脈は今にも累々と続いている。
 楽観論を唱えることの危うさも、その反射として、もちろんある。
 それでも、私は、根拠のある楽観論を、細々とではあるが説いていきたい。
 などと、厚かましくも思っている。
2019年11月18日

伊佐山紫文451

息子がネット上で作った「島」とやらが、誰かの手でユーチューブにアップされ、それなりに注目されているらしく、それを友達から知らされて、
「なんか、怖いなぁ」
 と、まんざらでもない様子。
 正直、何が何やらわからんが、まあ、それなりに成長して、それなりの場所で、それなりに頭角を現しているんだろう。
 思えば、私も中三の頃だったか、初めて原稿料というものを手にした。
 しっかりと税金も抜かれていた。
 十代半ばにして納税者になったのだ。
 申告すれば帰ってきたのかな。
 とにかく、親も何が起きているのか分からず、ただ面白がるだけだった。
 原稿を掲載してくれた雑誌の編集者は、私のために連載枠を作るから、このまま書き続けて、二十歳になるまでに書籍化しようと言ってくれた。
 愚かな私は断った。
 商業主義に毒されたくない、などと、愚かな、愚かな、愚かな屁理屈をこいて。
 実際は怖かったのだ。
 世の中に出ていくことが。
 あの時、身近に、背中を押してくれる人がいてくれたら。
 と、今になって思う。
 編集者からの手紙や年賀状はずっと来ていたが、そのうち途絶えた。
 ああ……バカなことをしたもんだ。
 と言うか「若さ」とは「バカさ」と同義である。
 大人がきちんとサポートしなければ、バカはバカのままで終わる。
 ただ、大人にはサポートのしようがわからんってこともある。
 だから、ユーチューブがどうしたとか、何が何やらわからんが、とりあえず古文を読むぞ。
「それにしても、かぐや姫の保護者って、無責任だよな」
 と息子。
「そんなことないだろ、ちゃんと育てて、守ってるんだから」
「じゃなくて、月の世界の方だよ。なんで地球に放り出したんだ」
 それは……その……
 お前もそのうち、放り出されるんだよ。
 世の中ってやつに。
 ユーチューブはその始まりなんだ。
 ちょっと早い気もするが、これが「今」ってことなのか。
 嗚呼。
2019年11月18日

伊佐山紫文450

浅川座長との間で「コロンタイ」がちょっとしたブームになっている。
「コロンタイになっちゃ駄目だわ」
 とか、
「またまたぁ、それじゃコロンタイよ」
 てな感じで。
 コロンタイ自身にとってはとんだ迷惑だと思うが、まあ、マイブームに近いものなので許してもらおう。
 それにしても、やり遂げた業績から言えばローザ・ルクセンブルクよりも遙かに巨大な存在なのに、どうしてこうも差がついたかね。
 あ、ローザ・ルクセンブルクがそもそも忘れられてるか。
 なんどか映画化されてる、ドイツの女性革命家です。
 こうやって、革命家とか、そんな連中が忘れ去られていくというのは、逆に現状が良くなってるからで、慶賀すべきことだと思う。
 コロンタイとか、ローザとか、誰それ、何言ってるの? ぐらいの世の中がちょうど良いんだと思う。
 思えば、生まれてから35くらいまで、ドップリと左翼的な泥沼の中にいた。
 平成元年、1989年に冷戦が終わって息の根が止められてからも、左翼たちはエコロジズム(環境主義)とフェミニズム(女性解放)に活路を見いだして、マスコミやアカデミズムの中で堂々と生き延びていた。
 私もその一人だったし、当時としてはそれほど間違ってはいなかったと思う。
 ただ、なんでもそうだが、運動は極端に走る傾向がある。
 エコロジズムもフェミニズムも、最初は科学的な知見に基づいた穏健なものだった。
 ところが、それが次第に先鋭化して、全く非科学的な、得体の知れないものに化け始めた。
 民主主義の世の中なんだから仕方ない、と言えばそれまでで、違和感を感じたなら、運動から離れてしまうほかはない。
 で、左翼の世界から出てみれば、そこにはなんとも広々とした、清々しい景色が広がっていたことか。
 狭い狭い左翼世界の中で、コロンタイが、ローザ・ルクセンブルクが、などと嘯き合って何とする。
 まあ、でも、そういう世界がマスコミ界、インテリ界に広がっていたのは事実で、今でも状況はそう変わっていない、と思う。
 私の場合、親が左翼の詩人だったというのも大きいし、何せ、最初に憶えたカタカナが「ソヴェート」だよ。
 そんな多感な少年時代、せせらぎの小川はドブになるし、親はアル中になるし、この世は確実に滅びの道を歩んでいた。
 もう、革命しかないっしょ!
 で、35までを生きて来た。
 それから二十数年、親の介護と子育てに追われ、ほとんど何にも進歩せずに、アラカンまで来てしまった。
 だからつい、コロンタイになる。
 心しよう。
 立ち止まると、
「コロンタイが出るぞ~」
2019年11月18日

伊佐山紫文450

浅川座長との間で「コロンタイ」がちょっとしたブームになっている。
「コロンタイになっちゃ駄目だわ」
 とか、
「またまたぁ、それじゃコロンタイよ」
 てな感じで。
 コロンタイ自身にとってはとんだ迷惑だと思うが、まあ、マイブームに近いものなので許してもらおう。
 それにしても、やり遂げた業績から言えばローザ・ルクセンブルクよりも遙かに巨大な存在なのに、どうしてこうも差がついたかね。
 あ、ローザ・ルクセンブルクがそもそも忘れられてるか。
 なんどか映画化されてる、ドイツの女性革命家です。
 こうやって、革命家とか、そんな連中が忘れ去られていくというのは、逆に現状が良くなってるからで、慶賀すべきことだと思う。
 コロンタイとか、ローザとか、誰それ、何言ってるの? ぐらいの世の中がちょうど良いんだと思う。
 思えば、生まれてから35くらいまで、ドップリと左翼的な泥沼の中にいた。
 平成元年、1989年に冷戦が終わって息の根が止められてからも、左翼たちはエコロジズム(環境主義)とフェミニズム(女性解放)に活路を見いだして、マスコミやアカデミズムの中で堂々と生き延びていた。
 私もその一人だったし、当時としてはそれほど間違ってはいなかったと思う。
 ただ、なんでもそうだが、運動は極端に走る傾向がある。
 エコロジズムもフェミニズムも、最初は科学的な知見に基づいた穏健なものだった。
 ところが、それが次第に先鋭化して、全く非科学的な、得体の知れないものに化け始めた。
 民主主義の世の中なんだから仕方ない、と言えばそれまでで、違和感を感じたなら、運動から離れてしまうほかはない。
 で、左翼の世界から出てみれば、そこにはなんとも広々とした、清々しい景色が広がっていたことか。
 狭い狭い左翼世界の中で、コロンタイが、ローザ・ルクセンブルクが、などと嘯き合って何とする。
 まあ、でも、そういう世界がマスコミ界、インテリ界に広がっていたのは事実で、今でも状況はそう変わっていない、と思う。
 私の場合、親が左翼の詩人だったというのも大きいし、何せ、最初に憶えたカタカナが「ソヴェート」だよ。
 そんな多感な少年時代、せせらぎの小川はドブになるし、親はアル中になるし、この世は確実に滅びの道を歩んでいた。
 もう、革命しかないっしょ!
 で、35までを生きて来た。
 それから二十数年、親の介護と子育てに追われ、ほとんど何にも進歩せずに、アラカンまで来てしまった。
 だからつい、コロンタイになる。
 心しよう。
 立ち止まると、
「コロンタイが出るぞ~」
2019年11月18日

伊佐山紫文449

天然酵母ってやつが厄介で、扱いに困る。
 確かにパンで焼いたときの香りは良いし、だからまあ、何かしら良いことをしてくれてるんだろうとは思う。
 ただ、気まぐれ。
 先日も、まったく発酵してくれず、ペッチャンコのパンになった。
 それでも息子は、
「お父さんが色々工夫してるんだから」
 などと殊勝な物言いで食べてはくれたが、納得はいかない。
 ネットで何種類か取り寄せて、発酵の具合など確かめている。
「ドライイーストとは明らかに違う」
 などと、したり顔で言う息子を抱えては、生存戦略も難しいものがあるぞ。
2019年11月10日

伊佐山紫文447

十数年前、息子が生まれるにあたって、家を少しでも広くしようとて、すぐには必要ない本やCDを日田に送り返した。
 その送り返した中にムラヴィンスキーの個人的コレクションも含まれていて、ちょっと今、困ったことになっている。
 と言うのも、今回、ラジオの仕事で色々と調べていて、個人的には驚愕の事実が次々と明らかとなった(笑)。
 その一つ、恥ずかしながら、今回、初めて、ムラヴィンスキーがコロンタイの甥っ子だと知った。
 そもそもが指揮者の来歴などどうでも良い聞き方をしてきたから、改めて、演奏年代とかを含めて聞き直したいと思ったのだが、手元にCDがない。
 困ったな、というレベルの話。
 それを電話での雑談で浅川座長にしたら、
「コロン……? そんなお菓子あったよね」
「え、まさか、コロンタイを知らないの?」
「知らん。初めて聞く。だれ、それ」
 実はこれが「驚愕の事実」の本体。
 オーマイガッ!
 妻にも聞いてみた。
 18で出会って以来の同志である。
「知らんよ。だれ、それ」
 オーマイガッ!!!!
 イヤイヤイヤ、ありえへんでしょう。
 例えば、誰でも知ってる「東京行進曲」。
「知らん」
「♪昔恋しい銀座の柳~の歌」
「ああ、知ってる」
「これって、昭和4年、1929年の映画で使われた歌なんやけど、この四番が有名で、♪シネマ見ましょうか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか って言うんだけど」
「知ってる」
「これって、西条八十の詞で、本当に天才的なんだよね。映画とかお茶の日常世界がいきなり駆け落ちなんて」
 こんなの西条八十にしか書けないし、と言うより、このときの西条八十でなければ書けなかっただろう。
 と言うのも、このとき、西条八十はフランスから帰ってきたばかりで、ヴァレリーなんかの影響を濃厚に残していた。
 しかも留学中に起きた関東大震災で、八十の知る東京はもはやそこにはなかった。
「昔恋しい銀座の柳」
 は、本当に失われた世界だったのだ。
 失われた世界を縦糸に、今の世相を横糸に、八十は見事なタペストリーを織り上げる。
 中山晋平作曲の、これは西条八十の初めての大ヒット曲となった。
 おかげで八十は小田急の生涯パスをもらっている。
 ちなみに、マーチでもないのに「行進曲」のタイトルがついているのは、前年に大流行した「道頓堀行進曲」のパクリ。
 このころ、大震災の影響もあって、文化発信の中心は関西に移っていた。
 岡田嘉子率いる松竹の「道頓堀行進曲」が神戸から大阪、そして東京で大当たりし、大流行した。
 何にでも「行進曲」をつけるのが流行だったのだ。
 ちなみに数年後、岡田嘉子はソ連に亡命することになる。
 で、なんでコロンタイかと言えば、この四番には逸話がある。
 本来は別の歌詞だったというのだ。
 元々の歌詞は、
「長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える『赤い恋』」
 マルクスボーイまで通じなきゃお話にもならんから、一応解説しておこう。
 大正末期から昭和初期に流行った「モボ」「モガ」は、それぞれ「モダンボーイ」「モダンガール」の略で、流行の最先端にいた若者を指す。
 ところが、もう一つの流行があって、ロシア革命の影響で左傾した一群の若者たちもかなりいた。
 それが「マルクスボーイ」「エンゲルスガール」、略して「マボ」「エガ」で、この男女間での自由恋愛のバイブルが小説『赤い恋』だった。
 この『赤い恋』の著者こそアレクサンドラ・コロンタイその人である。
 レーニン、トロツキーと並ぶロシアボルシェビキ革命の立役者の一人にして、世界初の女性大臣、世界初の女性大使、共産主義的な女性解放理論の先駆者にして小説家、もう、まばゆいばかりの女性である。
 本人の言葉ではないが、
「セックスはコップ一杯の水を飲むのと同じ」
 で知られ、これは「水一杯理論」と呼ばれた。
 で、共産主義にかぶれた「マボ」「エガ」も、下半身が性に飢えていること「モボ」「モガ」と異ならぬ。
「水一杯理論」は、特に男性の作家思想家に熱狂的に支持され、日本国中に燎原の火のように広がった。
「コロンタイズム」
 は、一方では進歩的な生き方とされ、一方では共産主義的退廃の象徴となった。
 面白いのは、例えばかつて『青鞜』に拠った女性思想家たちが、コロンタイズムに対して露骨に嫌悪を著していることだ。
 平塚雷鳥も、山川菊栄も、そこに男の身勝手を読み取っている。
 有名なのは、野上弥生子の『真知子』で、主人公の婚約者で共産主義者の男が、真知子という婚約者がありながら他の女性を妊娠させたのに、それをコロンタイズムを振りかざして開き直るという挿話である。
 宮本百合子も、当時ソ連ではとっくに禁書となっているのに、などと、スターリニストらしい批判をしている。
 話を『東京行進曲』に戻せば、そういう世相を反映した歌詞として、
「長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える『赤い恋』」
 と、西条八十は書いたのだった。
 ところがこの年、昭和4年、1929年には悪名高き「治安維持法」の成立をみている。
 危険な匂いを嗅ぎ取ったビクターレコードの側から要請があり、八十は即座に書き換えた。
「いっそ小田急で逃げましょか」
 の部分に、いわゆる「新しい女」、森田草平・平塚雷鳥の心中未遂事件に端を発する女性解放の新思潮に思いをはせて。
 と感じるのはうがち過ぎだろうか。
 ともあれ、最初の「マルクスボーイ」の歌詞よろしく、コロンタイは歴史の中に埋もれてしまった。
 これが戦後のウーマンリブ運動の中で再発見され、フリーセックス論の基盤を成した……
 はずだったんだがなぁ。
 誰も知らん。
 オーマイガッ!
2019年11月10日

伊佐山紫文447

小学校の間は、と、息子と一緒に風呂に入っているのだが、昨日、入ってくるなり、
「光は空気抵抗を受けるの?」
 と、これもまた、厄介な問題を聞いてきた。
 光は通常の物質とは違うから、摩擦である空気抵抗は受けない。
 ただし、大気を構成する分子、酸素や窒素に直接ぶつかることの影響はある。
 だから、真空中より遅くなる。
「たとえば夕焼けってあるよね」
「うん」
「それ以前に、晴れてる空は青いよね」
「青い」
「光には赤い光と、青い光があるってこと。光は1種類じゃないってことだ」
 で、その違いは波長と言って、波の大きさの違いだ。
 お風呂なので、大きな波と小さな波を作ってみせる。
「小さな波は何度も色々なものにぶつかるけど、大きな波は通り抜けるだけ。青い光は小さな波で、大きな波は赤い光なんだ」
 で、昼間は、青い光は自分の波長より大きな酸素や窒素にぶつかりまくって拡散する。
 結果、空全体が青くなる。
 夕方は、地球の斜めから光が差し込んでくる。
 大気中を抜ける光の距離が長くなる。
 そうなると、ばらけた青い光は見えなくなって、酸素や窒素をすり抜けた赤い光だけが見える。
 これが夕焼け。
 光が波だって証拠はここにもあって、と、まずはお風呂で二つの波が干渉し合う様子を見せて、次に、指の影を見せ、
「影ではくっついてるけど、実際には親指と人差し指は離れてるだろ」
「確かに」
「もし、光がただの粒子で、直線的に進むだけなら、影は実体を正確に写し取るだけのはず。ところが光には波の性質もあるから、こういうことが起こる」
 あ、新年に向けて百人一首読むの忘れてしまったやんか。
「いや、今日は勉強になったから、良いです」
 そっすか。
 お先に上がります。
2019年11月10日

伊佐山紫文446

息子が地球の将来を心配している。
 どこから仕入れたのか、数億年後には地球は滅ぶのだと。
「そりゃ滅ぶよ。何億年後かはわからんが、膨張した太陽に飲み込まれるからね」
「だったら、移住先を探さないと」
「そんなもん、あるわけないし、何億年先のことを心配しても始まらないだろ」
 人類が、このホモ・サピエンス・サピエンスが誕生したのが、まあ、一万年前としよう。
 この定規の1センチを一万年とする。
 とすると、1メートルが百万年。
 10メートルが一千万年。
 100メートルが一億年。
 人類の文明なんてここ数千年だから、数ミリだ。
 数ミリの知恵で、数百メートル先のことが見通せるかね。
 まあ、見通せるから、月に行って帰ってきたり、小惑星の地表サンプルを持ち帰ってきたりも出来るんだが、地球の将来となると話は別で、あまりに不確定要素が多すぎる。
 二酸化炭素が云々と言う議論も、億年単位の太陽の活動によっては、むしろ低濃度になる可能性が高く、そうなれば地上のほとんどの植物(C3)は絶滅する。
 生き残ったC4植物(トウモロコシなど)にすがって生きる少数の動物の中に人類がいるのかどうか。
 そんな程度のものなんだよ、人類なんて。
 そもそも「人類」なんて概念が生まれたのもここ百年くらい。
 こんなものを振りかざす連中なんて、基本、ろくなもんじゃない。
 でも、子供にはこんなこと言えんから、
「だったら、お前が宇宙科学者になって移住先を探したらどうだ」
「科学者なんて、生活していけんだろ」
 そこは現実的なんかい!
2019年11月10日

伊佐山紫文445

『冷戦とクラシック 音楽家たちの知られざる闘い』
中川右介著
NHK出版新書
 冷戦とクラシックについてまとめた本の中では最も手軽で手堅い一冊だろう。
 1989年と言えば、冷戦が終わった年であり、手塚治虫が、美空ひばりが、そしてカラヤンが亡くなり、何より、平成元年だった。
 この年、ベルリンの壁が崩壊し、地中海のマルタ島でゴルバチョフとブッシュは冷戦の終結を宣言した。
 私事になるが、当時、私は現KADOKAWAの編集者だった。
 KADOKAWAの安い給与で、当時数万もしたカラヤン追悼の20枚組CD選集を買った。
 これは今でも手元にある。
 本書でも言及されている「フライハイト」版の『第九』も買った。
 ベルリンの壁崩壊を記念して東西ドイツのオケが共演、指揮者はレナード・バーンスタイン。
 それも歌詞の「フロイデ(喜び)」を「フライハイト(自由)」に置き換えたもので、全体としてはよく分からんものになっているし、演奏自体がそれほどのもんじゃないので、数回聞いただけで、どこかに行ってしまった。
 翌年、バーンスタインも逝き、私事になるが我が祖母も94年の生涯を終えた。
 あれからもう30年。
 色んなことを思い出させてくれる一冊だった。
2019年11月10日

伊佐山紫文443

『ギャング・イン・ニューヨーク』平成30年2018年アメリカ、カナダ
監督:ケビン・コノリー 脚本:レオ・ロッシ、レム・ドブス
 マフィアの話。
 話がゴチャゴチャしてわかりにくい。
 主人公がなんでこれほどまでに政府を憎むのかも分からない。
 全てが中途半端。
 けっきょく最後まで観てしまったが。
★★★☆☆
2019年11月10日

伊佐山紫文442

『アナと世界の終わり』平成29年2017年イギリス
監督:ジョン・マクフェール 脚本:アラン・マクドナルド、ライアン・マクヘンリー
 痛快青春ゾンビミュージカル。
 隠れたテーマは「前向きな親殺し」。
 それ以上でも以下でもない。
★★★★☆
2019年11月10日

伊佐山紫文441

『バイス』平成30年2018年アメリカ
監督・脚本:アダム・マッケイ
 ブッシュ(子の方)政権を影で操り、自身が社長を務めた石油会社のためにイラク戦争を起こす。
 まあ、悪いやっちゃ、チェイニー副大統領(ヴァイス・プレジデント)。
 役者たちがもう怪演揃いで、内容のリベラル臭を倍加させ、立派なパロディの域に達している。
 ここまでどす黒く面白く政治を描けるって、映画って良いモンです。
★★★★★
2019年11月10日

伊佐山紫文440

ラジオで「冷戦」期のクラシック音楽事情について話をすることになったわけで、まあ、その頃の演奏を紹介すれば、番組的にはそれで良いわけなんだけど、それだけではすまないのが小理屈人間のサガである。
「冷戦」と言っても、その内実は東ドイツとソ連では全く異なっている。
 そもそもがこの二国は第二次世界大戦の主戦場の敗戦国と戦勝国である。
 私たちは第二次世界大戦を太平洋戦争と呼び、まるでアジアが主戦場であったかのように思いがちだが、実態はまるで違う。
 犠牲者の数を見ても、太平洋戦争では百万単位だが(これでも凄まじいが)、独ソ戦は一桁違う千万単位、数え方では億に届く。
 ドイツはロシア人を「ウンターメンシュ」(劣等人種)と思い込み、奴隷化するために絶滅戦争を仕掛けた。
 戦闘員も非戦闘員も女も子供もない、そこにいるスラブ人(ロシア人)は皆殺しか奴隷である。
 当然なことに、ロシア人はそれを、ナポレオンを撃退した「祖国戦争」になぞらえて「大祖国戦争」と呼び、徹底抗戦した。
 でなければ皆殺しか奴隷なのである。
 これは通常の国家同士の戦争ではない。
 だから、フランスなど西側諸国との戦争では機能していた捕虜だの停戦だのと言った約束事など一切ない。
 ただの野蛮な、ただし、近代兵器を使った殺し合いである。
 当然、その終わり方もヒトラーや側近の自殺という、およそ近代戦とは思えない結末で、戦後のベルリンではソ連兵による略奪、殺戮、強姦の嵐が吹き荒れた。
 まさに野蛮である。
 日本人が満州で体験した略奪、殺戮、強姦の嵐はベルリンで味を占めたソ連のお家芸に過ぎなかったのだ。
 このような野蛮の、その後に訪れたのが「冷戦」なのである。
 それが野蛮でないはずがない。
 この野蛮の質も、戦勝国と敗戦国、ロシアと東ドイツでは違ってくるが、今回はロシアに限って考えてみる。
 冷戦とそれに伴うジダーノフ批判の淵源は、様々に指摘されようが、私は、マルクス主義の教義そのものにあると思う。
 レーヴィットが指摘するように、マルクス主義は「真理」の概念を根底から覆した。
 人はよく「この時代にはこの思想を」と、たとえば「AI時代になったんだから、発想を転換しないと」などと言ったりするが、これはすべてマルクス主義である。
 マルクス以前には、真理は一つであり、時代によって変化するものではなかった。
 ヘーゲルは「ツァイト・ガイスト」(時代精神)を説いたが、それは真理へと至る運動としてであった。
 マルクスは経済的な土台の上に、それに応じた思想や考え方が生じると主張した。
 古代には古代の、中世には中世の、近代には近代の、それぞれの経済状況に応じた思想や考え方が生じる。
 まあ、それはそうだろうし、一面の事実をついてもいる。
 ただし、これを教義化した連中が権力を握るとどうなるか。
 資本主義にはそれに応じたブルジョア芸術がある。
 我々が築き上げたこの社会主義社会にはそれに応じた社会主義芸術があるはずだ。
 それ以外はブルジョアだ、退廃だ、と。
 問題は、その、社会主義に応じた芸術の定義を誰がするかと言うことで、そりゃ、共産党以外にありえない。
 共産党が全てを決める。
 共産党が認めた以外の芸術は全て退廃であり、その作者は収容所送りで、実質的な死刑である。
 そもそもが祖国大戦争を勝ち抜いたスターリンの共産党である。
 正しくないわけがない。
 命の重さも軽い。
 祖国大戦争では何千万もの同胞が犠牲になった。
 芸術家一人の命などなんぼのもんじゃ。
 こんな時代、こんな社会を、皆さん、どうやって生き延びますか。
 私は生き延びた人々、生き延びた芸術を、決して迎合だとは思わないし、思ってはいけないと思っている。
 むしろ、よく生き延びた、と愛おしくさえ思う。
 私が「冷戦」にこだわる理由でもある。
2019年11月10日

伊佐山紫文439

昨日、電車を乗り換え、吊り革に捕まってぼんやりしていると、座席に座っていた、本当にシューッとした今風の黒髪ロン毛黒服のイケメン若者が立ち上がって、ドア近くの車椅子に歩み寄り、
「降りますよね。それじゃ、後ろから行きます」
 とて、見事に介助して降車させ、何事もなかったかのように座席に戻った。
 車内、
『良いものを観た~』
 とて、和やかな雰囲気に満ちたのだったが、次の瞬間、車椅子のおっちゃんが、駆け寄ってきた駅員のおばちゃんに、聞くに堪えぬダミ声で、
「今頃なにやっとんじゃ! 遅いんじゃ、このボケ!」
 との罵倒で、すべてがぶち壊しになった。
 おそらく、車椅子の乗車位置の連絡違いだったのだろう。
 電鉄のミスと言えばそうなのだが、その言い方はないよな、との雰囲気が車内に満ちた。
 何年か前にも同じようなことがあった。
 何かの組合のデモ隊が駅構内の点字ブロックの上に座っていて、そこに、折悪しく、白杖の男性がやってきた。
 何人かは気づいたが、間に合わない。
 白杖が女の子にぶち当たり、男性はきりきり舞いになった。
 そして、
「どかんかい、何しとんじゃ!」
 と、私も初めて見たのだが、まさに「メクラメッポウ」、白杖で女の子たちをぶっ叩き始めた。
 状況の分からぬ女の子たちはパニックになり、ちょっとした騒乱状態である。
 私は駆け寄って男性を後ろから抱きかかえ、
「ここです、ここです」
 と白杖の手を押さえて点字ブロックを示すと、
「るさいわ! おら、どかんかい、ゴラァ!」
 と、私の手を振り払い、白杖を振り回しながら去って行った。
 強者=正義ではないのと同様、弱者=善人ではない。
 だから、いつもいつも善意が感謝で報われるとは限らない。
 弱者も人間なんだし。
2019年11月10日

伊佐山紫文433

『レイチェル・カーソン 上下』
ポール・ブルックス著 上遠恵子訳
新潮文庫
『沈黙の春』の編集者の書いた、伝記と言うより暖かい思い出の書。
 農薬DDTの害についてはカーソンが書かなくても誰かが問題化しただろうが、カーソンでなければこれほどのインパクトは持ち得なかったろう。
 自然を愛し、文学を愛し、科学者であり、詩人でなければ『沈黙の春』は書くことが出来なかったし、そもそも前著『われらをめぐる海』の大成功がなければ書く暇さえなかった。
『沈黙の春』のインパクトは決して偶然ではないことを、読者は静かに知るだろう。
 分厚い本ではあるが、カーソンに関心のある方は是非ご一読を。
2019年11月10日

伊佐山紫文432

レイチェル・カーソンのシンボル、オオカバマダラです。
2019年11月10日

伊佐山紫文431

ラジオ出演の仕事が入って、てっきり浅川座長と二人で出るものだと思っていたら、先方が私との対談を求めてきた。
 一応、テーマは「冷戦」ってことで、と言うのも、みんな忘れているが、今年はベルリンの壁崩壊30周年なんだよね。
「ヤルタからマルタまで」と言われる冷戦時代をクラシック音楽で振り返るって企画をプレゼンしたら、是非対談でって。
 実は、もう30年近く前、ラジオでは大失敗を繰り返した。
 当時の、結構なビッグネームが呼んでくれたんだけど、今で言えば「炎上」ですか、番組が荒れてしまって、今で言えば「出禁」ですか、そんな状態になってしまった。
 私も傲慢だったし、先方も安易だった。
 と、思う。
 あるときも、スタジオに入ったら、私の台本はもうすっかり用意されていて、その通りしゃべってくれたら良いから、と。
 いやいやいや、それはないでしょ。
 で、そこにいたゲストがたまたま知り合いで……
 まあ、思い出したくもないが、二度と呼んではもらえなかった。
 夙川座を結座してからラジオには都合4回出ているが、これは一人じゃなく、いつも浅川座長がいたからバランスが取れていたんだと思う。
 一人じゃ嫌だよ~
 てなことを座長にメールしたら、
「何を言ってるのよ! 幼稚園児じゃあるまいし。ちゃんとスタジオの外で待っててあげるから、しっかりやりなさい。あなたなら出来る!」
 はい。
 やってきますわ。
 詳細は追って。
プロフィール
notebook
notebook
学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

< 2019年11>
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリ
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人