「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2019年11月18日

伊佐山紫文454

『孔子』
和辻哲郎著 岩波文庫
 小さな名著。
 フィロロギー(フィロロジー、書誌学)の方法に拠りながら、『論語』を読み解いていく。
 その部分もスリリングだが、やはり孔子の「死」を論じた最終章が最も興味深い。
 孔子は、仏陀やキリストやソクラテスとは違い、普通に死んだ。
 しかも、後世の孔子伝の記者たちは『論語』にある孔子の死をあからさまに無視している。
 孔子の死は何らの修飾を受けることもなく、壮大な物語を構成することもなかった。
 それが結果的に『論語』を単なる語録に止めたのか、著者は明言しない。
 ただ、シナに生まれ、徹底的に現世的であった禅宗との比較を仄めかすのみである。
 何度読み返しても気づくところの多い、小さな名著である。
2019年11月18日

伊佐山紫文453

『暴力の人類史 上下』
スティーブン・ピンカー著 幾島幸子・塩原通緒訳 青土社
 上下巻で総ページ数1200を超える大著にして名著中の名著。
 文庫化しないかと待っていたのだが、待ちきれなくて図書館で借りてきた。
 それにしても、邦題は酷い。
 原題をそのまま訳せば、
『我々の本性の中の良い天使 なぜ暴力は減り続けているのか』
 人類史を観たとき、たとえ直近の二つの大戦があったにせよ、暴力は減り続けている。
 それはなぜなのか?
 認知・進化心理学者でもあるピンカーはまず歴史をひもとき、そして心理へと向かい、最終的にはゲーム理論で締めくくる。
 暴力の減少は、神の意志でもなく、宇宙の不思議な力でもなく、この世の内部で、単純なアルゴリズムの結果だとほのめかす。
 非常に説得力があり、マット・リドレーの、これはハヤカワ文庫に入っている、
『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』
 と合わせ読みたい。
 ピンカーの未訳の最新作、
『Enlightenment Now』(今を照らす(啓蒙する))
 の邦訳も早く欲しいなぁ。
 待ちきれずにペンギンから取り寄せて少しずつ読んでるけど。
 ほとんど同時期に出た、ジャレド・ダイアモンドの大著、
『Upheaval: How Nations Cope with Crisis and Change 』
 は、もう、
『危機と人類 上下』
 として、つい最近邦訳が出た。
 原書はまだ半分も読めてないのに。
 日経だからすぐに文庫になるかも知れんが、これも待ち切れん。
 買って読むかな。
2019年11月18日

伊佐山紫文452

人が楽観よりも悲観を好むのは、マスコミに現れる論調を観れば明らかだろう。
 この50年、あくまでも相対的にだが、国は戦争をしなくなったし、人は人を殺さなくなったし、レイプしなくなったし、殴らなくなった。
 これは数字から分かる。
 けれど、そんな根拠のある楽観論を一言でも口にすれば、マスコミからは追放される。
 食いっぱぐれる。
 それが嫌なら、世界は第二次世界大戦前に似てきたし、温暖化で滅びる寸前にあるし、人類は凶暴化してきたし、子供はボンクラでイジメ地獄にいるし……などと根拠のない悲観論を吐き続けるしかない。
 とにかく人は根拠のない悲観論が大好きなのだ。
 もう、死んでもかまわないほど。
 と言うより、根拠があろうがなかろうが、悲観論を信じる人々が生き残ってきたのだ。
 我々ホモ・サピエンス・サピエンスは、決して情報化社会に適応しているわけではない。
 我々が我々になった時代、新石器時代は、男の死因の(計算の仕方にも拠るが)2割から4割が他殺というような、今から考えれば殺伐とした社会である。
 女の他殺の死因が低いのは単に戦利品として生かされただけであって、決して男に比べて幸福だったわけではない。
 それに、特に古代ギリシャの好戦的なポリスで明らかなように、女児は生まれるとすぐに殺された。
 戦士にならないから、育てても無駄だからだ。
 女は他のポリスからぶんどってくるものであって、自分たちが育てるものではなかったのだ。
 原始時代がユートピアだったというのは幻想であり、我々は、小集団が殺し合う中で、もちろん文字もない時代を何万年も生き延びてきたのである。
 文字情報、いわんや数字など、その時代の誰が信じよう。
 いや、信じるものはいただろう。
 そして信じるものから順に死んでいった。
 なぜなら、その時代の文字情報や数字など、大まかな事実は伝え得ても、正確に将来を見通すことは出来なかったから。
 で、私が常々疑問に思っているのは、イソップ寓話にある「オオカミ少年」の教訓である。
 大抵は「嘘つきは信用されなくなる」との教訓で終わっているのだが、これっておかしくはないか?
 ギリシャ語の原典は失われてしまったから、今に伝わるもので議論するしかないが、この結論は明らかにおかしい。
 この寓話には異なる系統があって、
1「羊飼いがオオカミに食われる」
2「羊がオオカミに食われる」
 の2種類の結論があるだが、オオカミが羊飼いだけを食って帰ることがあるだろうか。
 実際には、羊飼いも羊も両方食われてしまったのではないか。
 よしんば生き残った羊飼いも、というより、羊を共有していた集落は冬を越せずに全滅していたのではないか。
 羊は遊牧民の重要な食物であり、特に冬を越すためにはその干し肉が欠かせない。
 オオカミはその羊を狙うから恐れられたのだ。
 オオカミに羊を食われた集落は全滅する。
 その大事な羊を守るのに、嘘つきの少年を使った。
 何度も嘘をついているのにもかかわらず、使い続けた。
 あげく、少年の言を信用せず、全滅した。
 ここから得られる教訓は、まず、
「人を選べ」
 であり、そうでなくば、
「どんなに根拠がなかろうと、警報(悲観論」には備えよ」
 と言うことではなかったか。
 その血脈は今にも累々と続いている。
 楽観論を唱えることの危うさも、その反射として、もちろんある。
 それでも、私は、根拠のある楽観論を、細々とではあるが説いていきたい。
 などと、厚かましくも思っている。
2019年11月18日

伊佐山紫文451

息子がネット上で作った「島」とやらが、誰かの手でユーチューブにアップされ、それなりに注目されているらしく、それを友達から知らされて、
「なんか、怖いなぁ」
 と、まんざらでもない様子。
 正直、何が何やらわからんが、まあ、それなりに成長して、それなりの場所で、それなりに頭角を現しているんだろう。
 思えば、私も中三の頃だったか、初めて原稿料というものを手にした。
 しっかりと税金も抜かれていた。
 十代半ばにして納税者になったのだ。
 申告すれば帰ってきたのかな。
 とにかく、親も何が起きているのか分からず、ただ面白がるだけだった。
 原稿を掲載してくれた雑誌の編集者は、私のために連載枠を作るから、このまま書き続けて、二十歳になるまでに書籍化しようと言ってくれた。
 愚かな私は断った。
 商業主義に毒されたくない、などと、愚かな、愚かな、愚かな屁理屈をこいて。
 実際は怖かったのだ。
 世の中に出ていくことが。
 あの時、身近に、背中を押してくれる人がいてくれたら。
 と、今になって思う。
 編集者からの手紙や年賀状はずっと来ていたが、そのうち途絶えた。
 ああ……バカなことをしたもんだ。
 と言うか「若さ」とは「バカさ」と同義である。
 大人がきちんとサポートしなければ、バカはバカのままで終わる。
 ただ、大人にはサポートのしようがわからんってこともある。
 だから、ユーチューブがどうしたとか、何が何やらわからんが、とりあえず古文を読むぞ。
「それにしても、かぐや姫の保護者って、無責任だよな」
 と息子。
「そんなことないだろ、ちゃんと育てて、守ってるんだから」
「じゃなくて、月の世界の方だよ。なんで地球に放り出したんだ」
 それは……その……
 お前もそのうち、放り出されるんだよ。
 世の中ってやつに。
 ユーチューブはその始まりなんだ。
 ちょっと早い気もするが、これが「今」ってことなのか。
 嗚呼。
2019年11月18日

伊佐山紫文450

浅川座長との間で「コロンタイ」がちょっとしたブームになっている。
「コロンタイになっちゃ駄目だわ」
 とか、
「またまたぁ、それじゃコロンタイよ」
 てな感じで。
 コロンタイ自身にとってはとんだ迷惑だと思うが、まあ、マイブームに近いものなので許してもらおう。
 それにしても、やり遂げた業績から言えばローザ・ルクセンブルクよりも遙かに巨大な存在なのに、どうしてこうも差がついたかね。
 あ、ローザ・ルクセンブルクがそもそも忘れられてるか。
 なんどか映画化されてる、ドイツの女性革命家です。
 こうやって、革命家とか、そんな連中が忘れ去られていくというのは、逆に現状が良くなってるからで、慶賀すべきことだと思う。
 コロンタイとか、ローザとか、誰それ、何言ってるの? ぐらいの世の中がちょうど良いんだと思う。
 思えば、生まれてから35くらいまで、ドップリと左翼的な泥沼の中にいた。
 平成元年、1989年に冷戦が終わって息の根が止められてからも、左翼たちはエコロジズム(環境主義)とフェミニズム(女性解放)に活路を見いだして、マスコミやアカデミズムの中で堂々と生き延びていた。
 私もその一人だったし、当時としてはそれほど間違ってはいなかったと思う。
 ただ、なんでもそうだが、運動は極端に走る傾向がある。
 エコロジズムもフェミニズムも、最初は科学的な知見に基づいた穏健なものだった。
 ところが、それが次第に先鋭化して、全く非科学的な、得体の知れないものに化け始めた。
 民主主義の世の中なんだから仕方ない、と言えばそれまでで、違和感を感じたなら、運動から離れてしまうほかはない。
 で、左翼の世界から出てみれば、そこにはなんとも広々とした、清々しい景色が広がっていたことか。
 狭い狭い左翼世界の中で、コロンタイが、ローザ・ルクセンブルクが、などと嘯き合って何とする。
 まあ、でも、そういう世界がマスコミ界、インテリ界に広がっていたのは事実で、今でも状況はそう変わっていない、と思う。
 私の場合、親が左翼の詩人だったというのも大きいし、何せ、最初に憶えたカタカナが「ソヴェート」だよ。
 そんな多感な少年時代、せせらぎの小川はドブになるし、親はアル中になるし、この世は確実に滅びの道を歩んでいた。
 もう、革命しかないっしょ!
 で、35までを生きて来た。
 それから二十数年、親の介護と子育てに追われ、ほとんど何にも進歩せずに、アラカンまで来てしまった。
 だからつい、コロンタイになる。
 心しよう。
 立ち止まると、
「コロンタイが出るぞ~」
2019年11月18日

伊佐山紫文450

浅川座長との間で「コロンタイ」がちょっとしたブームになっている。
「コロンタイになっちゃ駄目だわ」
 とか、
「またまたぁ、それじゃコロンタイよ」
 てな感じで。
 コロンタイ自身にとってはとんだ迷惑だと思うが、まあ、マイブームに近いものなので許してもらおう。
 それにしても、やり遂げた業績から言えばローザ・ルクセンブルクよりも遙かに巨大な存在なのに、どうしてこうも差がついたかね。
 あ、ローザ・ルクセンブルクがそもそも忘れられてるか。
 なんどか映画化されてる、ドイツの女性革命家です。
 こうやって、革命家とか、そんな連中が忘れ去られていくというのは、逆に現状が良くなってるからで、慶賀すべきことだと思う。
 コロンタイとか、ローザとか、誰それ、何言ってるの? ぐらいの世の中がちょうど良いんだと思う。
 思えば、生まれてから35くらいまで、ドップリと左翼的な泥沼の中にいた。
 平成元年、1989年に冷戦が終わって息の根が止められてからも、左翼たちはエコロジズム(環境主義)とフェミニズム(女性解放)に活路を見いだして、マスコミやアカデミズムの中で堂々と生き延びていた。
 私もその一人だったし、当時としてはそれほど間違ってはいなかったと思う。
 ただ、なんでもそうだが、運動は極端に走る傾向がある。
 エコロジズムもフェミニズムも、最初は科学的な知見に基づいた穏健なものだった。
 ところが、それが次第に先鋭化して、全く非科学的な、得体の知れないものに化け始めた。
 民主主義の世の中なんだから仕方ない、と言えばそれまでで、違和感を感じたなら、運動から離れてしまうほかはない。
 で、左翼の世界から出てみれば、そこにはなんとも広々とした、清々しい景色が広がっていたことか。
 狭い狭い左翼世界の中で、コロンタイが、ローザ・ルクセンブルクが、などと嘯き合って何とする。
 まあ、でも、そういう世界がマスコミ界、インテリ界に広がっていたのは事実で、今でも状況はそう変わっていない、と思う。
 私の場合、親が左翼の詩人だったというのも大きいし、何せ、最初に憶えたカタカナが「ソヴェート」だよ。
 そんな多感な少年時代、せせらぎの小川はドブになるし、親はアル中になるし、この世は確実に滅びの道を歩んでいた。
 もう、革命しかないっしょ!
 で、35までを生きて来た。
 それから二十数年、親の介護と子育てに追われ、ほとんど何にも進歩せずに、アラカンまで来てしまった。
 だからつい、コロンタイになる。
 心しよう。
 立ち止まると、
「コロンタイが出るぞ~」
2019年11月18日

伊佐山紫文449

天然酵母ってやつが厄介で、扱いに困る。
 確かにパンで焼いたときの香りは良いし、だからまあ、何かしら良いことをしてくれてるんだろうとは思う。
 ただ、気まぐれ。
 先日も、まったく発酵してくれず、ペッチャンコのパンになった。
 それでも息子は、
「お父さんが色々工夫してるんだから」
 などと殊勝な物言いで食べてはくれたが、納得はいかない。
 ネットで何種類か取り寄せて、発酵の具合など確かめている。
「ドライイーストとは明らかに違う」
 などと、したり顔で言う息子を抱えては、生存戦略も難しいものがあるぞ。
プロフィール
notebook
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学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

< 2019年11>
S M T W T F S
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