「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2020年03月28日

伊佐山紫文547

『行動経済学の逆襲 上下』
リチャード・セイラー著 遠藤真美訳 ハヤカワノンフィクション文庫
 人間には非合理的な「くせ」がある。
 この「くせ」は英語では「ビヘイビア(習慣その他)」であり、これを更に日本語にするとき、「行動」と訳されたりもする。
「動物行動学」の「行動」も「ビヘイビア」であり、本書の「行動経済学」の「行動」も同様である。
 それではなぜ「行動」が問題になるのか。
「行動」はある意味、正常からの逸脱であり、そうは言いながらも、経済学で「正常」とされている人間そのものは、現実にはいない徹底的な合理主義者であったりする。
 現実にはいない「正常」人っていったい何だ?
 現実には、10円安い肉を求めてスーパーをハシゴする人間が、パソコンを買うときには数千円の差を気にしなかったり、と、人は経済的不合理な選択を重ねて生きている。
 合理主義的な経済的理想人間「ホモエコノミカス」(本書ではエコンと呼ばれる)ではなく、時には非合理的な「行動」をとる「ヒューマン」の発見とその振る舞いの記述を行うのが行動経済学である。
 行動経済学の古典的名著『ファースト&スロー』の著者ダニエル・カーネマンは心理学者だったし、実験心理学的な手法を経済学に持ち込んだことでノーベル経済学賞を受賞した。
 本書はこの行動経済学が生まれ出る瞬間のドキュメントでもある。
 だけでなく、行動科学の知見が現実の政策に取り入れられていく、その現場のドキュメントでもある。
 最新の知見を政策が取り入れていくところ、イギリスやアメリカは凄いな、と思う。
 と言うより、そうしないとやっていけない面があるのも、一面の事実なんだろう。
 私見だが、経済学も社会学も、これら統治の技術体系は、牧羊にその起源があると思う。
 そもそもキリストからして自らを牧夫になぞらえたし。
 日本にはいかなる時代にも遊牧民はおらず、従って統治の技術が体系化されることもなかった。
 遊牧民と接していた古代チャイナとは大違いで、本居宣長が喝破したように、日本に孔子ら聖人は必要なかったのだ。
 本書に戻れば、行動経済学で言うところの、人をエラーから救い、目標へと促す、いわゆる「ナッジ」が生まれ出た背景も知ることが出来て、何重にもお得な本になっている。
 ちなみに「ナッジ」とは肘で小突いて行動を促すこと。
 あなたがこの本を読むように、強く「ナッジ」したい。
2020年03月28日

伊佐山紫文546

今月号の『日経サイエンス』の特集「新型コロナウイルス 病原体の実像に迫る」は良い記事だった。
 今回のコロナ騒ぎが過去のSARSやMARSと違うのは、早々にウイルスのゲノム(遺伝子、今回はRNA)が解析されたことにある。
 解析され、ゲノムが周知されたことにより、感染性や病原性の強さ、さらには感染部位まで予測できるようになった。
 そもそもゲノムとは、それがコードするタンパク質の暗号みたいなものである。
 新しい感染症で厄介なのは、それがウイルスによるものなのか、細菌によるものなのか、まず特定せねばならず、これがもう、まず危険極まりなく、根気の要る作業であることだ。
 SARSの時、その病原体がコロナウイルスの一種であることを特定することに数ヶ月を要したのも当然で、とにかく、まずウイルスを集めること、そのゲノムを解析して構造を明らかにすること、これら一つ一つの作業が、根気と時間のいる苦行なのだ。
 まず採取したウイルスの数を増やさなければならない。
 一定の数がなければゲノムを解析することがそもそも出来ない。
 一般の方は誤解されていると思うが、ゲノム解析とは、一個の遺伝子のDNAやRNAを読み取ることではない。
 大量のゲノムの切れ端を統計的に解析することで、確率的に最もあり得るゲノムの全体像を作り上げていく。
 母集団(ウイルス)は多いに越したことはない。
 だから、ウイルスを増やさなければならないのだが、そのためには、まず、培地となる細胞を用意しなければならない。
 例えば、インフルエンザの予防接種を受けるときに、鳥へのアレルギーを聞かれるのは、インフルエンザウイルスへのワクチンを作るための培地に鳥の細胞を用いているためだ。
 インフルエンザは元々鳥の病原体であり、だから鳥の細胞を培地に使っているのである。
 鳥に対してアレルギーを持つ人は、それで作ったワクチンにも当然反応する。
 それでは、今回のウイルスは、何の細胞を使って増やす?
 と、本来なら、そこからの話になるところである。
 それが、早々にゲノム情報が公開されたから、日本の優秀な研究者たちには、将来の経過も含めて全てが読めてしまった。
 ウイルスそのものの毒性はなく、むしろ免疫反応の方が問題であること、つまり、健康な人には中立に近いが、基礎疾患を持つ人には致命的になる、と。
 ウイルスに対し免疫が過剰反応してしまう結果、限られた免疫の力では基礎疾患への対応が出来なくなり、ウイルスそのものと言うより、基礎疾患の悪化によって重篤化に至るというわけだ。
 であれば、全数検査など愚の骨頂でしかない。
 高齢者や基礎疾患のある人を守るよう、感染者の管理をはかるべきだ。
 それだけで充分、とは言わないが、大騒ぎするほどのもんじゃない。
 それでは、なぜ、ヨーロッパではあんな惨状になったのか。
 ここからは私見だが、すべて、ドイツ第四帝国の緊縮財政主義による。
 エマニュエル・トッドに倣い、EUではなくあえてドイツ第四帝国と呼ばしてもらうが、ドイツ第四帝国が押しつけた緊縮財政主義により、イタリアに限らず、ヨーロッパでは医療制度がすでに崩壊していたのだ。
 ヨーロッパがパンデミックのセンターになったのは偶然ではない。
 アメリカも同様で、医療制度の崩壊した階層にウイルスは忍び込む。
 アッパーでヘルシーに生きていれば鼻風邪で済むところ、ハンバーガーで高脂血症になり高血圧になり糖尿病を併発しているような階層をウイルスは直撃する。
 もちろん、無保険だから医者にもかかれない。
 なぜ、アイダホやバーモントではなく、カリフォルニアやニューヨークなのか、鍵はウイルスではなく、社会の構造による。
 かく、流行病は社会の病を映し出す。
 日本でもまた違った病の形が映し出されたと思うが、それはまた別の機会に。
2020年03月27日

伊佐山紫文545

今月号の『日経サイエンス』の特集「新型コロナウイルス 病原体の実像に迫る」は良い記事だった。
 今回のコロナ騒ぎが過去のSARSやMARSと違うのは、早々にウイルスのゲノム(遺伝子、今回はRNA)が解析されたことにある。
 解析され、ゲノムが周知されたことにより、感染性や病原性の強さ、さらには感染部位まで予測できるようになった。
 そもそもゲノムとは、それがコードするタンパク質の暗号みたいなものである。
 新しい感染症で厄介なのは、それがウイルスによるものなのか、細菌によるものなのか、まず特定せねばならず、これがもう、まず危険極まりなく、根気の要る作業であることだ。
 SARSの時、その病原体がコロナウイルスの一種であることを特定することに数ヶ月を要したのも当然で、とにかく、まずウイルスを集めること、そのゲノムを解析して構造を明らかにすること、これら一つ一つの作業が、根気と時間のいる苦行なのだ。
 まず採取したウイルスの数を増やさなければならない。
 一定の数がなければゲノムを解析することがそもそも出来ない。
 一般の方は誤解されていると思うが、ゲノム解析とは、一個の遺伝子のDNAやRNAを読み取ることではない。
 大量のゲノムの切れ端を統計的に解析することで、確率的に最もあり得るゲノムの全体像を作り上げていく。
 母集団(ウイルス)は多いに越したことはない。
 だから、ウイルスを増やさなければならないのだが、そのためには、まず、培地となる細胞を用意しなければならない。
 例えば、インフルエンザの予防接種を受けるときに、鳥へのアレルギーを聞かれるのは、インフルエンザウイルスへのワクチンを作るための培地に鳥の細胞を用いているためだ。
 インフルエンザは元々鳥の病原体であり、だから鳥の細胞を培地に使っているのである。
 鳥に対してアレルギーを持つ人は、それで作ったワクチンにも当然反応する。
 それでは、今回のウイルスは、何の細胞を使って増やす?
 と、本来なら、そこからの話になるところである。
 それが、早々にゲノム情報が公開されたから、日本の優秀な研究者たちには、将来の経過も含めて全てが読めてしまった。
 ウイルスそのものの毒性はなく、むしろ免疫反応の方が問題であること、つまり、健康な人には中立に近いが、基礎疾患を持つ人には致命的になる、と。
 ウイルスに対し免疫が過剰反応してしまう結果、限られた免疫の力では基礎疾患への対応が出来なくなり、ウイルスそのものと言うより、基礎疾患の悪化によって重篤化に至るというわけだ。
 であれば、全数検査など愚の骨頂でしかない。
 高齢者や基礎疾患のある人を守るよう、感染者の管理をはかるべきだ。
 それだけで充分、とは言わないが、大騒ぎするほどのもんじゃない。
 それでは、なぜ、ヨーロッパではあんな惨状になったのか。
 ここからは私見だが、すべて、ドイツ第四帝国の緊縮財政主義による。
 エマニュエル・トッドに倣い、EUではなくあえてドイツ第四帝国と呼ばしてもらうが、ドイツ第四帝国が押しつけた緊縮財政主義により、イタリアに限らず、ヨーロッパでは医療制度がすでに崩壊していたのだ。
 ヨーロッパがパンデミックのセンターになったのは偶然ではない。
 アメリカも同様で、医療制度の崩壊した階層にウイルスは忍び込む。
 アッパーでヘルシーに生きていれば鼻風邪で済むところ、ハンバーガーで高脂血症になり高血圧になり糖尿病を併発しているような階層をウイルスは直撃する。
 もちろん、無保険だから医者にもかかれない。
 なぜ、アイダホやバーモントではなく、カリフォルニアやニューヨークなのか、鍵はウイルスではなく、社会の構造による。
 かく、流行病は社会の病を映し出す。
 日本でもまた違った病の形が映し出されたと思うが、それはまた別の機会に。
2020年03月26日

伊佐山紫文544

『138億年宇宙の旅 上下』
クリストフ・ガルファール著 塩原通緒訳 ハヤカワノンフィクション文庫
 本のタイトルに「138億年」を入れるのが流行っているようだ。
 138億年とは、言うまでもなく、ビッグバンからこれまで流れた時間のこと。
 本書では主人公である名無しの「あなた」が極大の世界、つまり宇宙の始まりから、極小の世界、つまり量子の出現にまで立ち会うことになる。
 極大と極小の世界がなぜ繋がるのか?
 アインシュタインの一般相対性理論が破綻するのは極大と極小の世界だからだ。
 そこからは量子論や弦理論の、目もくらむような世界が広がっている。
 それぞれの理論の推移の境目を見るには極大や極小の世界への「旅」が必要であり、「あなた」は筆者に導かれてその旅に出る。
 物語としては稚拙だが、数式や図式なしで得られる総合的な知識は素晴らしい。
 アインシュタインがどれほどの偉業を成し遂げたかも良く分かる。
 ちなみに、ホモ・サピエンス(人類)が誕生したのを長く見積もって30万年。
 文明を直近の2000年とするなら、これは人類の歴史の150分の1である。
 東京大阪間を400キロとして換算すると、最後の2.5キロ。
 もし東京大阪間を宇宙の歴史とするなら、人間の誕生するのは最後の87メートル、文明の誕生は1メートルにも満たない。
 何かと騒がしい時勢だからこそ、こんな雄大な本でも読んで心を落ち着かせたい。
2020年03月25日

伊佐山紫文543

『オリジン・ストーリー 138億年全史』
デイヴィッド・クリスチャン著 柴田裕之訳 筑摩書房
 138億年というのは、この宇宙が生まれてから今までに流れた時間で、つまり歴史の全てを一冊で描くということだ。
 いかにも無謀な作業だが、実に読み応えのある一冊になっている。
 同じ訳者によるユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』と被る部分もあるが、視野は遙かに広い。
 もし入学祝いに迷ったら、この一冊で間違いない。
2020年03月24日

伊佐山紫文542

「晩ご飯、なに?」
「カレーライス」
「この間も作らなかったか?」
「関西では週に一度はカレーライスなんだよ」
「ウチのカレーライス、もう少し何というか……」
「コクが足りんとでも?」
「そう」
「普通のカレールー、あれはほとんど油やから、あんなの食ってたら、豚になる」
「じゃあ、カロリーの低いルーって作れないの?」
「だ・か・ら、ルーそのものが油なの。ウチはルーを使わずに作ってるから」
 なんだかもう、ゴチャゴチャうるさい。
 それでも出してみればあっという間に完食で、
「旨かったか?」
 と聞けば、
「旨かった」
 だったらもう、最初からゴチャゴチャ言うな。
 伊吹島の高級イリコで出汁を取り、ブランド豚を圧力鍋で煮立て、丁寧に油やアクをとったベースに特級醤油と有機トマトピューレ、有機野菜とスパイス、最後にトロミが片栗粉というのがまあ、アレだが、決して有名店にも負ける味ではないと思うぞ。 
 確かに脂分を乳化させずに取り除いているからコクには欠けるがね。
 とにかく、男は料理に文句をつけちゃいかんのだよ。
 黙って食う。
 聞かれれば、
「美味しいよ」
 だけで良い。
 もし不味かったら、和食なら、
「懐かしい味がする」
 洋食なら、
「若い人は大好きでしょうね」
 とでも言っておけばいい。
 人間ってのは共食することで関係性を作っていく生き物なんだから、出されたものについては、ゴチャゴチャ言わない方が身のためだ。
 酒だって、そう。
 前頭葉の理性を緩めて警戒心を解き、敵かも知れない相手と酌み交わすのが酒である。
 男女も、酒がなかったら結ばれていないカップルがほとんどじゃないか。
 だからもう、ゴチャゴチャ言わずに飲め。
 あ、お前はまだ未成年だったな。
「ボクは大人になっても酒なんか飲まないよ」
「なんで?」
「お父さんみたいな酔っ払いになりたくない」
 確かにね。
 少し控えます。
2020年03月23日

伊佐山紫文541

小学校6年の頃、
『へっぽこ変人きてれつ奇人』(北川幸比古、黒鉄ヒロシ 講談社)
 という本を買ってきて、熱心に読んだ。
 日本史上の変人奇人を紹介する、その筆致が実に愛に満ちていて、すでに学校からドロップアウトしていた私は、その愛が愛おしく、何度も何度も読み返したものだった。
 世に妙なやつはなんぼでもいるけれど、「変人」「奇人」、あるいは「変わり者」と呼ばれる人たちは、どこかしら愛される部分を持っている。
 逸脱しても良い、愛されていれば、と、すでに「変わり者」と化していた私は、この本から学んだ。
 学んだが、それを生かせているとはとても言えぬのが悲しいところ。
 で、翻って、我が子である。
 間違いなく「変わり者」の類いなのだが、そして「変わり者」であるが故に、それなりにファンがいることは卒業式の撮影会で分かった。
 引っ張りだこ、とは言えぬまでも、はやりの言葉で言えば、何らかのクラスターにまとめられている。
 そのクラスターの要素として無くてはならない存在と、誰かが思ってくれているんだろう。
 ありがたいことだ。
 友達と外で駆け回るよりネット上の殺戮ゲームに明け暮れることを好むような「変わり者」でも、同じクラスターに入れてくれる女子たちがいる。
 ありがたいことだ。
 とにかく、もう、人生の常道を歩むことは出来ぬだろうから、「愛すべき」が頭に付くような「変わり者」として生きるしかない。
 どう応援したら良いのか見当もつかんが。
2020年03月22日

伊佐山紫文

昨日、33回目の結婚記念日とて、珍しく三人で外食した。
 駅前の焼き鳥屋。
 それほど期待してはいなかったのに、これが旨かった。
 身も蓋もない言い方になるが、精巣の焼き方など絶品だし、タレに頼らない塩の旨さがこれほど効いている焼き鳥には出会ったことがない。
 ただ、息子によれば、唐揚げは家のものの方が美味しいと言うことで、一応の面目も保たせていただいた。
 店長は釣りが趣味らしく、珍しいリールをディスプレイしていたので、少々、マニアックな話も。
「それ、アメリカのバス専用のリールですよ」
「そうですね。このあと、ヘドン何かが出てきますけど、それまではシェイクスピアが主流でしたからね」
 云々。
 で、帰ってきてからは小林秀雄をつまみに焼酎。
 何というのか、この人、徹頭徹尾、科学者じゃない。
 哲学者でもないし、本当に、自分の好き放題を書きまくる、批評とか評論というジャンルを打ち立てた人なんだなと思う。
 僭越ながら、私とは思考の性質が違いすぎて、読んでいて反発しか覚えないが、それでも読んでしまう。
 読まされてしまう。
 もし小林秀雄が生きていたら、この新型コロナ騒ぎをどう評するだろう、などと思いながら。
 この一連の騒ぎを見ていて、ハッキリと分かったことがある。
 新型コロナウイルスは脳を冒す。
 ウイルスに直接触れなくとも、ウイルスの情報を見聞きすることで、その人の脳が明らかに病む。
 この世は様々な危険に満ちており、けれどそれはドンドン改善されて行っているという明らかな事実など目にも耳にも入らなくなり、明日にでも、いや、今日にでも自分や肉親が感染して死ぬかのごとき幻覚を見るようになる。
 そして、その幻覚を共有出来ぬ人を攻撃するようになる。
 日本は封じ込めに成功しているのではなく、隠蔽しているのだと、あるいは、これから感染爆発が起きるのだと、とにかく、過激に、過激に、世論は誘導されていく。
 まさに、情報のパンデミックである。
 小林秀雄なら、これこそ、言葉によって生きる人間の本性だと喝破するだろう。
 私は、そりゃそうでしょうよ、と認めながらも、あんな旨い焼き鳥屋で閑古鳥が鳴いていることの方が問題だと思う。
 いい加減、、新型コロナウイルスに洗脳された脳を洗い直そう。
 誰がなんと言おうと、これはただの風邪だって。
 まあ、風邪は万病の元とも言うから、気をつけるに越したことはないでしょうが。
2020年03月20日

伊佐山紫文539

昨日は息子の卒業式だった。
 コロナ騒ぎで式そのものには出られなかったが、校庭で出待ちした。
 出てきましたわ、スーツに身を包んだ男子たち、袴姿の女子たち。
 大撮影会の始まりです。
 まあ、女子たちの仕切ること仕切ること。
 その女子の中にはもちろん、母親たちも入るんですけどね。
 男子たちはもう、あっちに行けと言われればあっちへ行き、こっち来いと言われればこっちに来て、とにかく「ピース」あるいは「卒業証書」を持ってにっこり。
 こんな女子たちが仕切るようになったから、卒業式が派手になったんだよ。
 でもまあ、楽しげだ。
 クラスごと、出身幼稚園ごと、それぞれ仕切る女子がいて、
「腹減った、早く帰ろう」
 とか行ってる男子らをあっちへやり、こっちへやり、とにかく、見事なもんだ。
 なんか、良い時代になったよ。
 泣いてるひまも無かった。
2020年03月19日

伊佐山紫文538

息子の小学校の卒業式である。
 この日のために、この日のためだけに買ったスーツを着込んだ息子を見送り、妻を見送り、やるせなくパソコンに向かう。
 コロナ騒ぎのせいで保護者の出席は一人までとされているから仕方ない。
 ああ、6年間、あっという間だった。
 昨日、息子は、ヤマハのピアノに行きそびれたとて、半狂乱になりかけたが、何のことはない、今月中は休みになったと連絡があったのに母親が伝え忘れていただけのこと。
 一瞬騒いで、それでも、デュメイ、ピリスの「クロイツェル」には鋭く反応し、節を口でなぞり、
「これ、良い曲だよな。うん。良い曲だ」
 そりゃそうでしょうよ。
 あまりのことにトルストイが反撃したほどの名曲ですよ。
 ただ、この版はテンポが速過ぎて私の好みじゃない。
 私ゃやっぱ、ケンプとメニューインですね。
「春」に比べてピアノが重すぎるのもなんだかなぁって感じ。
 それでも、我が子が、名曲を名曲だとして、口でなぞれるほどにはなってきたんだと、感慨無量。
 卒業式に出られなくて良かったよ。
 これは、絶対に泣くから。
2020年03月18日

伊佐山紫文537

息子を散髪させるのに近所のイオンに連れて行った。
 営業時間が通常に戻ったのもあるだろうが、制服を着た男子、女子がゾロゾロいる。
 自粛ムードも解け、春の自由を満喫しているのが見て取れる。
 中には、急に訪れたこの休みのことを、
「コロナ休み」
 と呼んでる連中もいて、そりゃそうだよな、と妙に納得する。
 ハッキリ言って子供らには関係ないから、この騒ぎもただの「休み」なんだろう。
 我が息子はネットゲーム三昧で、ところがアメリカのサーバーが(おそらくこのコロナ騒ぎで)メインテナンスに入ったものだから、仕方なく勉強へ。
 キーワードを赤い透明シートで隠した英語の例文を読んでいく。
 これが結構スラスラと読める。
 すっげー、と感心していると、例文を読む、その目の角度が何かおかしい。
「お前、どの角度から見たら透けて見えるか、研究してないか」
「ふへへ」
 ったく……
 憶える、んじゃなく、出し抜こうとする。
 これもまた一つの才能なんだろう。
 それをまた出し抜くべく、また考えるよ。
11/21土曜日昼大阪クレオ中央ホールでの
上方うた芝居
「レイチェル·カーソン やめなはれ DDT!」
の脚本完成しました。

今回は、初の全曲新曲。
この芝居の為に作曲してもらっています。

今回は、演出は九州在住のすんごい方に演出していただきますし笑、

ナレーションは、FMOH!のくらこれ企画吉川智明さんにしていただけることになりましたし、

舞台手話通訳の団体TA-netさんとのチャレンジで、
舞台脇、ではなく、
舞台の中で出演者として、
手話通訳者が芝居しながら、
聾唖のお客様への情報保証をしていくものです。

パフォーマンスとしても手話は美しく、手話が舞台上にあることで、さらに面白くなるものです。

日本劇作家協会の大会や新国立劇場などの大きな所でされたことはありますが、まだ数えるくらいしか実現していません。

今回は、TA-netさんとのチャレンジです。

なんとか、させていただきたい!
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2020年03月11日

伊佐山紫文536

TSUTAYAのプライム会員になって、旧作は無料で借り放題、それを良いことに、息子とSFの名作を観まくっている。
『ターミネーター』『スターシップ・トゥルーパーズ』など、それからこれは息子には刺激が強すぎるから一人で『スピーシーズ』『バイオハザード』などのシリーズを次から次に。
 それで思ったのだが、これって「映画」か?
 たとえばワーグナーの『リング』を単なる「オペラ」とは呼びがたいように、これらSFのシリーズは「映画」とは別の、一種のアトラクションと位置づけた方が良いような気がする。
 良く、物語の起伏の激しい映画のことを「ジェットコースターのような」と言ったりするが、正にそれで、計算され尽くした安全な危険、この世は滅ぶかも知れないが、主人公たちは生き残る。
 そのために色々とおかしなことも起きてくる。
 そこに息子も、
「○○と●●と、矛盾してねぇか?」
 などとツッコミを入れる。
「ハリウッドではお約束が何より大事やから。細かなことは良いんだよ」
「そうか? △△は死んで、▲▲は生まれなかったはずだろ」
「どうしても▲▲をもう一度使いたかったんだよ。今度は良いモンとして」
「大人の事情ってやつか」
 遅生まれの息子ももうすぐ12歳。
 4月からは中学生。
 大人の事情も分かり始めました。
2020年03月11日

伊佐山紫文535

昨日、
 上方うた芝居『レイチェル・カーソン やめなはれDDT!』
 の初稿を浅川座長と検討し、これで進めることになった。
 本来ならあと二月かけて文献を読み、それで一気に書き上げる、となるはずが、全曲オリジナル作曲という事情が出てきたものだから仕方ない。
 文献は読み進めるし、必要があればその都度手を入れていくことにした。
 もちろん、出演者の皆さんに迷惑のかからない範囲ではあるが。
 それにしても、自分が言い出したこととは言え、前回の『クララ・シューマン 天才のヨメはん』と『レイチェル・カーソン』とでは、何というか、物語の質がまるで違うし、それに伴う困難さは前回の比ではない。
 クララは一人の音楽家だが、レイチェルはいわば世界を変えた偉人である。
 偉人であるが故に評価も分かれる。
 誰もが納得するような人物像はとうてい描けない。
 もちろん、単なるドタバタのおふざけは出来ないし、かと言って生真面目なものは「上方うた芝居」を掲げる以上、あり得ない。
 どうやって、面白く、かつ、深い物語を紡ぐか。
 これはもう、棒高跳びのハードルを一気に一メートル上げたようなもの。
 もちろん、上げたのは私自身に他ならず、全ての責任を引き受けるのも私である。
 結構な重圧の中、二日間、『バイオハザード』シリーズのDVDを観ながら書き上げた。
 だから、もしかしたら、今回のレイチェル像に、ミラ・ジョヴォヴィッチ演じるアリスの姿が投影されてしまったかも。
 誰か作ってくれないかなぁ、農薬で突然変異したウイルスに感染したゾンビたちと戦うレイチェル・カーソンの映画。
 タイトルはもちろん、
『沈黙の春とゾンビ』
 不謹慎でした。
 謹んでお詫び申し上げます。
2020年03月11日

伊佐山紫文534

「逆ニート」
 とは、我が息子がAIを評してつけたネーミングである。
 母親が「AIは消費しないからね」と言ったのに続けて、
「だったら、逆ニートだね」と。
 確かに、ニートは消費するばかりで生産活動に携わらない。
 なにせ、
「not in education, employment or training(教育、就労、訓練に就いていない)」
 つまり何の価値も生んでいない。
 ただ、生きるために消費しているばかりなのがニートである。
 だから、一見すれば、AIの方が価値があるように見える。
 何せ、消費するのは電力だけで、ひたすら働くばかり。
 食ってばかりのニートとは雲泥の差、に見える。
 ところが、これを大きな社会の中で観るとどうなるか。
 ある会計事務所がAIを導入して人員を削減したとしよう。
 パートのおばちゃん二人をクビにした。
 クビというか、もう年金も入るから辞めたいと常々言っていた二人である。
 誰も傷つかない合理化である。
 で、何が起こったか。
 この二人がお昼に食べていた出前のうどん二食の需要がなくなった。
 なにせ、AIはうどんなど食わん。
 おばちゃんたちは事務所を辞めて家で食べているのだろうが、家で食うものは、どれだけ手をかけても原材料以上の価値は生まない。
 自家消費は、経済価値としてはゼロである。
 しかもお金の出所が年金となったら、社会全体から見れば、まさに消費するだけのニートに他ならない。
 AIが労働者に置き換わり、労働者がニートと化したのだから、まさにAIは「逆ニート」である。
 さすが、ネーミングの神様と言われた(いつ?)私の息子だけのことはある。
 これは単純極まる一例だが、同じようなことが、これから全世界的規模で起きてくる。
 今でこそ、人手が足りない、だから外国人労働者、などと、呑気なことを言っているが、将来的には消費の落ち込み、つまりは総需要の減少が必ず起きてくる。
 何せ、AIは消費しない、のである。
 消費せずにひたすら価値を生み続けるAIの行き着く果ては一億総ニートかもしれない。
 それはそれで良い世の中かもしれないが、人間は「生きがい」の動物だと言うことを忘れてはならない。
 一部の、AIを操る「生きがい」に満ちたエリートと、ただ食わしてもらってるだけの「生きがい」を無くした大衆「ニート」。
 そんな世の中、嫌だなぁ。
 古い人間ですから。
2020年03月11日

伊佐山紫文533

コロナ騒ぎは確かにバカバカしいが、バカバカしいとばかり言っていられないのは、この事態のもたらす連鎖である。
 現実に株価は下がっている。
 つまり、インフルエンザより遙かに弱い微弱なウイルスによる感染が全人口の0.0001%に満たない割合で広がっている(笑)ことを心配した連中がいて、様々なイベントを取りやめ、行動を自粛し、結果、経済活動が縮小し、それを懸念した連中が株を売り、それを懸念した連中が……の連鎖である。
 この連鎖が始まってしまっては、大本のウイルスの危険性の強弱など消し飛んでしまう。
 結局は、皆がどう思っているか、皆がどう思っているかと皆がどう思っているか、の問題である。
 ここでは事実など何の意味も持たない。
 事実ではなく、虚妄、人々が思い込んだフィクションの問題であり、そして、これこそが人が人たり得ることの条件なのである。
 人は虚妄、フィクションを信じることが出来る。
 と言うより、信じ合うことが出来る。
 あの人はこう信じているだろうと信じる。
 愛、宗教、国家……人間らしさのすべてはフィクションを信じるところから始まる。
 もし人が、フィクションではなく、事実のみでしか生きられなかったら?
 映画『ギャラクシークエスト』ではないが、人間関係の全てが消し飛ぶだろう。
 今回のコロナ騒ぎも、人が人であることの証明なのだ。
 だとしても早く収束して欲しい。
 バカバカしすぎるから。
2020年03月11日

伊佐山紫文532

昨日、イオンに行ってみて驚いた。
 本当にトイレットペーパーがなくなっている。
「本当になくなってる!」
 と笑い合う若いカップルもいて、いったい何なんだよ、と思う。
 しかも阪急オアシスでは、
「トイレットペーパーの盗難が相次いでおり、このままでは設置も困難になります云々」
 の張り紙。
 ウイルスは天災(とも言い切れないが)かも知れないが、このマスクやトイレットペーパーの不足は明らかな人災である。
 それも、誰が悪いというわけでもない、不特定多数の「人」による災難である。
 そもそも今回のコロナウイルスなど、百年前だったらこれほどグローバルに広がらなかった。
 ローカルな、一種の風邪としてかたづけられていただろう。
 人がグローバルに動くから、ウイルスもグローバルに広がっていく。
 たとえば感染しながら症状の出ない健康な人が飛行機に乗って観光地に行く。
 で、一部の人は当然、観光地特有の濃厚な濃密な時間を水蒸気に満ちた密室で過ごす。
 そこで感染したのは若く健康な女性だから、当然、症状は出ない。
 症状が出ないうちに、他のお客様にウイルスを渡す。
 渡された客は症状が出ないうちに次の観光地へと向かう。
 北海道の患者の分布を見ていると、そんな動線を描きたくなる。
 今回の休校騒ぎも、きちんと理由を説明すべきだ。
 若者は感染しても症状が出ない、よって、学校そのものが健康な培地になり、児童・生徒が健康な感染者となって家庭にウイルスを持ち帰りかねない。
 そして、一定数の家庭には、感染すれば重篤化しかねない高齢者もいる。
 高齢者とは、言うまでもなく、投票率の高い有権者である。
 高齢者で構成された宗教団体を支持基盤とする与党としては、これは困った事態である。
 なにせ、一気に死なれては困る。
 だから、休校にします、と。
 それが、まるで子供を保護するかのような言い方をするから議論がこじれる。
 まあ、現実にトイレットペーパーが消えてしまえば、議論がこじれるも何もあったもんじゃないが、とにかくすべて、行動経済学で言うところのヒューリスティクスなエラーから生じているわけで、まあ、仕方ない。
 息子は相変わらずネットゲームで友人と繋がってますけどね。
 そこではウイルス感染の心配はないでしょうよ。
 別のウイルスはいるでしょうが。
2020年03月11日

伊佐山紫文531

コープが半自家製味噌の販売を今年でやめるという。
 この味噌、この時期に北海道で仕込み、自宅で熟成させるというもので、賞味期限は熟成終了から九ヶ月と言うが、なんの、1年を過ぎた頃から抜群に旨くなる。
 今ウチにあるのも1年以上賞味期限をすぎたものだ。
 こんな旨いもの、なんで販売をやめるんだ、とは思わない。
 仕方ない、のだよ。
 味噌の消費量は絶対に減っている。
 それは売り場を見れば分かる。
 近所のコープでも、とうに仙台味噌はなくなり、気付けば八丁味噌は消え、出汁入りの得体の知れない味噌が幅をきかせている。
 まあ、人のことは言えない。
 うちとて、ヨーグルトメーカーを買ってからは、味噌は基本自家製。
 以前は、仙台味噌、信州味噌、八丁味噌、白味噌、九州の麦味噌、等々と市販品を何種類も揃えていたのに、今では製品はコープの半自家製味噌だけになっていた。
 手前味噌、と言う言葉があるように、味噌は自分の家で作ったものがいちばんだと思う。
 私が子供の頃、両親は共働き、と言うより、父は活動家で、母が稼ぎ頭だったから、数年、朝食はトーストとインスタントのスープという時期が続いた。
 そんな中、ある日、何を思ったのか、母が、きちんとイリコで出汁を取り、九州の麦味噌で調えた味噌汁の朝食を出してきた。
 これが旨かった。
 私はその時、小学校の低学年だったと思うが、なぜか、母に、
「ありがとう」
 と言った。
 心から言った。
 私は当時、学校との戦争で心が荒みきっていた。
 その心に染み込むような一杯だった。
 で、なぜか、母に、
「ありがとう」
 と言ったのだった。
 以来、家の朝食は和食になった。
 さて、何年前になったか、浅川座長の母君の入ったグループホームでは朝食が洋食で、どうしても和食をとの母君の要望には応えかねるとて、インスタントの味噌汁を提案された。
 人一倍食に気を遣ってくれた母親にそれはあんまりだと、浅川座長は言い、それでは、と私が提案したのが、
「味噌玉」
 である。
 どこにでも売っている「削り節粉」、有り体に言えば「魚粉」である。
 これを市販の味噌に混ぜ込む。
 同時に乾燥カットワカメも。
 具入り出汁入り味噌の完成である。
 これを一食分、大さじ一ほどの団子に丸め、ラップして冷蔵しておく。
 食べる直前に熱湯で溶く。
 これが激ウマの味噌汁になる。
 浅川座長の母君はたいそう喜ばれ、
「娘の作った味噌汁は美味しいの」
 と、折にふれ、おっしゃっていたという。
 私は、実の母にはろくな孝行も出来なかったが、これでまあ、いいかな、と思った。
 母君が亡くなったとき、北海道でのお別れの会で、私の作詞した、
『日本レクイエム』
 を浅川座長が歌い、嫋々たるヴァイオリンの余韻が北の空に消えていったと聞いたとき、私は母のことを思った。
 息子の「ありがとう」に味噌汁を作り続けた母の思い。
 アル中で、統合失調症で、コミュ障で、世間から見ればどうしようもない母だったが、あの母もやはり母親だったのだ、と。
 我が家では、夕食に、がっつりと具沢山の味噌汁を出す。
 息子は嫌がるが、とにかく食え、と。
 これが明日の体を作るのだから、と。
 もちろん、思い出という名の、心も。
2020年03月11日

伊佐山紫文530

妻がどうしても行ってこいというので、眼科を受診した。
 金曜日から充血して、夜には涙が止まらなくなっていたから。
 土曜の朝にはもう峠を過ぎ、大丈夫だと思っていたのに、どうしても行けと、日曜でも開いている眼科を妻がネットで調べて、行け、行け、とうるさいので仕方ない。
 こんなものはおそらく、そこらのザコウイルスの日和見感染による結膜炎で、原因の特定など不可能、つまり治療は無理、やり過ごすしかない種類のものだ。
 で、受診して、案の定、(おそらくは)ウイルス性結膜炎、目薬をもらったが、これが効くという訳ではない。
 症状の緩和だけ。
 それにしても、初めて、眼球の浮腫というのを体験した。
 目を閉じても、閉じきれないんですよ。
 眼球の透明な部分がむくんでいて。
 こんな状態で、浅川座長と飲みに行って、バーで馬鹿話までしてたんだから、症状が治まって御の字ですわ。
 どんな馬鹿話かって?
 こんなです。
 客の一人が、
「俺なんか、俳優になってたら、結構、いけてたと思うんやで。(夙川座の)舞台に出してや」
「なら、樹木なんかどうです? (両腕を広げ)こうやって「サワサワサワ」って感じで」
「こうか? サワサワサワ……」
 隣にいた若い衆が、
「樹木を人がやって、舞台として成立するんですか?」
「成立するやろ、ワシがこうやってサワサワサワ……」
「それ、樹木に見えませんよ」
「見えへんか? ほら、サワサワサワ……」
 あまりのことに、私が、
「あの、これ、冗談なんですけど……」
 冗談かいな! のツッコミもなく、ひたすらシラケてしまった。 
 これに限らず、私の冗談というものが全く通じてなくて、関西のボケツッコミ文化の奥深さを思い知らされましたわ。
 結膜炎、悪化しなくて良かった……
2020年03月11日

伊佐山紫文529

息子の小学校の卒業式はどうにかやれるようになって、それで聞いてみた。
「小学校どうだった?」
「楽しかったよ。けど……」
 やはり、低学年のころ、言葉の後れによる意思疎通がかなわなかったことが後を引いているらしい。
 今思えば、一歳児健診で頭周りが50センチを超すというのも異常事態で、脳のシナプス接続の速度が一定だとすれば、そりゃ物理的に色々問題が出てくるのも当然だ。
 その問題の出て来方が問題で、発達障害となかなか区別が付かない。
 三歳児健診の時にも、普段は難なくやれる積み木もギャー泣きで出来なかった。
 障害のある子と、それをかたくなに否定する親の図を、これから数年演じることになった。
 積み木と言えば私自身にも思い出がある。
 40を過ぎた頃の健診で、問診の時、一辺が三センチくらいの積み木を三つ、縦に積むように言われた。
 若い女医さんで、ニコニコと、
「さあ」
 と。 
 何をさせるんだと思ったが、そんなもの造作もない。
 今思えば、アル中がどれほど進んでいるかの検査だったのだろう。
 後にも先にも、こんなことをさせられたのはこの時だけで、と言うより、この病院に行ったのも、時期的にここしか開いておらず、仕方なく、のことだった。
 そもそも、検尿のトイレが男女共用というのもどうかと思う。
 私が検尿の紙コップを持って入っていくと、驚いたおばあちゃんが床にこぼしたぞ。
「減ってもうたがな。これで大丈夫やと思う?」
 いきなりコップを鼻先に突きつけられてもナァ……
 血液検査もなかなか針が静脈に至らず、内出血の痕は数日赤黒く残ったし、今でも左の上腕にはこの時のしこりのようなものがある。
 待合室の様子も酷かった。
 アル中らしきオヤジたちが罵り合ってるし。
「……やろ!」
「ちゃうがな、……やろ!」
 そもそも病院の待合室でカップ酒って、しかも、入院の服着て。
 後で見たら、病院のすぐ近くに酒の自販機がある。
 そりゃ、積み木も積ますわ、と今になっては思う。
 あれから十数年、子供も出来、酒はもちろん飲み続けているが、まだ積み木は大丈夫。
 積めなくなったら、考えます。
プロフィール
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学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

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