「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2020年03月11日

伊佐山紫文536

TSUTAYAのプライム会員になって、旧作は無料で借り放題、それを良いことに、息子とSFの名作を観まくっている。
『ターミネーター』『スターシップ・トゥルーパーズ』など、それからこれは息子には刺激が強すぎるから一人で『スピーシーズ』『バイオハザード』などのシリーズを次から次に。
 それで思ったのだが、これって「映画」か?
 たとえばワーグナーの『リング』を単なる「オペラ」とは呼びがたいように、これらSFのシリーズは「映画」とは別の、一種のアトラクションと位置づけた方が良いような気がする。
 良く、物語の起伏の激しい映画のことを「ジェットコースターのような」と言ったりするが、正にそれで、計算され尽くした安全な危険、この世は滅ぶかも知れないが、主人公たちは生き残る。
 そのために色々とおかしなことも起きてくる。
 そこに息子も、
「○○と●●と、矛盾してねぇか?」
 などとツッコミを入れる。
「ハリウッドではお約束が何より大事やから。細かなことは良いんだよ」
「そうか? △△は死んで、▲▲は生まれなかったはずだろ」
「どうしても▲▲をもう一度使いたかったんだよ。今度は良いモンとして」
「大人の事情ってやつか」
 遅生まれの息子ももうすぐ12歳。
 4月からは中学生。
 大人の事情も分かり始めました。
2020年03月11日

伊佐山紫文535

昨日、
 上方うた芝居『レイチェル・カーソン やめなはれDDT!』
 の初稿を浅川座長と検討し、これで進めることになった。
 本来ならあと二月かけて文献を読み、それで一気に書き上げる、となるはずが、全曲オリジナル作曲という事情が出てきたものだから仕方ない。
 文献は読み進めるし、必要があればその都度手を入れていくことにした。
 もちろん、出演者の皆さんに迷惑のかからない範囲ではあるが。
 それにしても、自分が言い出したこととは言え、前回の『クララ・シューマン 天才のヨメはん』と『レイチェル・カーソン』とでは、何というか、物語の質がまるで違うし、それに伴う困難さは前回の比ではない。
 クララは一人の音楽家だが、レイチェルはいわば世界を変えた偉人である。
 偉人であるが故に評価も分かれる。
 誰もが納得するような人物像はとうてい描けない。
 もちろん、単なるドタバタのおふざけは出来ないし、かと言って生真面目なものは「上方うた芝居」を掲げる以上、あり得ない。
 どうやって、面白く、かつ、深い物語を紡ぐか。
 これはもう、棒高跳びのハードルを一気に一メートル上げたようなもの。
 もちろん、上げたのは私自身に他ならず、全ての責任を引き受けるのも私である。
 結構な重圧の中、二日間、『バイオハザード』シリーズのDVDを観ながら書き上げた。
 だから、もしかしたら、今回のレイチェル像に、ミラ・ジョヴォヴィッチ演じるアリスの姿が投影されてしまったかも。
 誰か作ってくれないかなぁ、農薬で突然変異したウイルスに感染したゾンビたちと戦うレイチェル・カーソンの映画。
 タイトルはもちろん、
『沈黙の春とゾンビ』
 不謹慎でした。
 謹んでお詫び申し上げます。
2020年03月11日

伊佐山紫文534

「逆ニート」
 とは、我が息子がAIを評してつけたネーミングである。
 母親が「AIは消費しないからね」と言ったのに続けて、
「だったら、逆ニートだね」と。
 確かに、ニートは消費するばかりで生産活動に携わらない。
 なにせ、
「not in education, employment or training(教育、就労、訓練に就いていない)」
 つまり何の価値も生んでいない。
 ただ、生きるために消費しているばかりなのがニートである。
 だから、一見すれば、AIの方が価値があるように見える。
 何せ、消費するのは電力だけで、ひたすら働くばかり。
 食ってばかりのニートとは雲泥の差、に見える。
 ところが、これを大きな社会の中で観るとどうなるか。
 ある会計事務所がAIを導入して人員を削減したとしよう。
 パートのおばちゃん二人をクビにした。
 クビというか、もう年金も入るから辞めたいと常々言っていた二人である。
 誰も傷つかない合理化である。
 で、何が起こったか。
 この二人がお昼に食べていた出前のうどん二食の需要がなくなった。
 なにせ、AIはうどんなど食わん。
 おばちゃんたちは事務所を辞めて家で食べているのだろうが、家で食うものは、どれだけ手をかけても原材料以上の価値は生まない。
 自家消費は、経済価値としてはゼロである。
 しかもお金の出所が年金となったら、社会全体から見れば、まさに消費するだけのニートに他ならない。
 AIが労働者に置き換わり、労働者がニートと化したのだから、まさにAIは「逆ニート」である。
 さすが、ネーミングの神様と言われた(いつ?)私の息子だけのことはある。
 これは単純極まる一例だが、同じようなことが、これから全世界的規模で起きてくる。
 今でこそ、人手が足りない、だから外国人労働者、などと、呑気なことを言っているが、将来的には消費の落ち込み、つまりは総需要の減少が必ず起きてくる。
 何せ、AIは消費しない、のである。
 消費せずにひたすら価値を生み続けるAIの行き着く果ては一億総ニートかもしれない。
 それはそれで良い世の中かもしれないが、人間は「生きがい」の動物だと言うことを忘れてはならない。
 一部の、AIを操る「生きがい」に満ちたエリートと、ただ食わしてもらってるだけの「生きがい」を無くした大衆「ニート」。
 そんな世の中、嫌だなぁ。
 古い人間ですから。
2020年03月11日

伊佐山紫文533

コロナ騒ぎは確かにバカバカしいが、バカバカしいとばかり言っていられないのは、この事態のもたらす連鎖である。
 現実に株価は下がっている。
 つまり、インフルエンザより遙かに弱い微弱なウイルスによる感染が全人口の0.0001%に満たない割合で広がっている(笑)ことを心配した連中がいて、様々なイベントを取りやめ、行動を自粛し、結果、経済活動が縮小し、それを懸念した連中が株を売り、それを懸念した連中が……の連鎖である。
 この連鎖が始まってしまっては、大本のウイルスの危険性の強弱など消し飛んでしまう。
 結局は、皆がどう思っているか、皆がどう思っているかと皆がどう思っているか、の問題である。
 ここでは事実など何の意味も持たない。
 事実ではなく、虚妄、人々が思い込んだフィクションの問題であり、そして、これこそが人が人たり得ることの条件なのである。
 人は虚妄、フィクションを信じることが出来る。
 と言うより、信じ合うことが出来る。
 あの人はこう信じているだろうと信じる。
 愛、宗教、国家……人間らしさのすべてはフィクションを信じるところから始まる。
 もし人が、フィクションではなく、事実のみでしか生きられなかったら?
 映画『ギャラクシークエスト』ではないが、人間関係の全てが消し飛ぶだろう。
 今回のコロナ騒ぎも、人が人であることの証明なのだ。
 だとしても早く収束して欲しい。
 バカバカしすぎるから。
2020年03月11日

伊佐山紫文532

昨日、イオンに行ってみて驚いた。
 本当にトイレットペーパーがなくなっている。
「本当になくなってる!」
 と笑い合う若いカップルもいて、いったい何なんだよ、と思う。
 しかも阪急オアシスでは、
「トイレットペーパーの盗難が相次いでおり、このままでは設置も困難になります云々」
 の張り紙。
 ウイルスは天災(とも言い切れないが)かも知れないが、このマスクやトイレットペーパーの不足は明らかな人災である。
 それも、誰が悪いというわけでもない、不特定多数の「人」による災難である。
 そもそも今回のコロナウイルスなど、百年前だったらこれほどグローバルに広がらなかった。
 ローカルな、一種の風邪としてかたづけられていただろう。
 人がグローバルに動くから、ウイルスもグローバルに広がっていく。
 たとえば感染しながら症状の出ない健康な人が飛行機に乗って観光地に行く。
 で、一部の人は当然、観光地特有の濃厚な濃密な時間を水蒸気に満ちた密室で過ごす。
 そこで感染したのは若く健康な女性だから、当然、症状は出ない。
 症状が出ないうちに、他のお客様にウイルスを渡す。
 渡された客は症状が出ないうちに次の観光地へと向かう。
 北海道の患者の分布を見ていると、そんな動線を描きたくなる。
 今回の休校騒ぎも、きちんと理由を説明すべきだ。
 若者は感染しても症状が出ない、よって、学校そのものが健康な培地になり、児童・生徒が健康な感染者となって家庭にウイルスを持ち帰りかねない。
 そして、一定数の家庭には、感染すれば重篤化しかねない高齢者もいる。
 高齢者とは、言うまでもなく、投票率の高い有権者である。
 高齢者で構成された宗教団体を支持基盤とする与党としては、これは困った事態である。
 なにせ、一気に死なれては困る。
 だから、休校にします、と。
 それが、まるで子供を保護するかのような言い方をするから議論がこじれる。
 まあ、現実にトイレットペーパーが消えてしまえば、議論がこじれるも何もあったもんじゃないが、とにかくすべて、行動経済学で言うところのヒューリスティクスなエラーから生じているわけで、まあ、仕方ない。
 息子は相変わらずネットゲームで友人と繋がってますけどね。
 そこではウイルス感染の心配はないでしょうよ。
 別のウイルスはいるでしょうが。
2020年03月11日

伊佐山紫文531

コープが半自家製味噌の販売を今年でやめるという。
 この味噌、この時期に北海道で仕込み、自宅で熟成させるというもので、賞味期限は熟成終了から九ヶ月と言うが、なんの、1年を過ぎた頃から抜群に旨くなる。
 今ウチにあるのも1年以上賞味期限をすぎたものだ。
 こんな旨いもの、なんで販売をやめるんだ、とは思わない。
 仕方ない、のだよ。
 味噌の消費量は絶対に減っている。
 それは売り場を見れば分かる。
 近所のコープでも、とうに仙台味噌はなくなり、気付けば八丁味噌は消え、出汁入りの得体の知れない味噌が幅をきかせている。
 まあ、人のことは言えない。
 うちとて、ヨーグルトメーカーを買ってからは、味噌は基本自家製。
 以前は、仙台味噌、信州味噌、八丁味噌、白味噌、九州の麦味噌、等々と市販品を何種類も揃えていたのに、今では製品はコープの半自家製味噌だけになっていた。
 手前味噌、と言う言葉があるように、味噌は自分の家で作ったものがいちばんだと思う。
 私が子供の頃、両親は共働き、と言うより、父は活動家で、母が稼ぎ頭だったから、数年、朝食はトーストとインスタントのスープという時期が続いた。
 そんな中、ある日、何を思ったのか、母が、きちんとイリコで出汁を取り、九州の麦味噌で調えた味噌汁の朝食を出してきた。
 これが旨かった。
 私はその時、小学校の低学年だったと思うが、なぜか、母に、
「ありがとう」
 と言った。
 心から言った。
 私は当時、学校との戦争で心が荒みきっていた。
 その心に染み込むような一杯だった。
 で、なぜか、母に、
「ありがとう」
 と言ったのだった。
 以来、家の朝食は和食になった。
 さて、何年前になったか、浅川座長の母君の入ったグループホームでは朝食が洋食で、どうしても和食をとの母君の要望には応えかねるとて、インスタントの味噌汁を提案された。
 人一倍食に気を遣ってくれた母親にそれはあんまりだと、浅川座長は言い、それでは、と私が提案したのが、
「味噌玉」
 である。
 どこにでも売っている「削り節粉」、有り体に言えば「魚粉」である。
 これを市販の味噌に混ぜ込む。
 同時に乾燥カットワカメも。
 具入り出汁入り味噌の完成である。
 これを一食分、大さじ一ほどの団子に丸め、ラップして冷蔵しておく。
 食べる直前に熱湯で溶く。
 これが激ウマの味噌汁になる。
 浅川座長の母君はたいそう喜ばれ、
「娘の作った味噌汁は美味しいの」
 と、折にふれ、おっしゃっていたという。
 私は、実の母にはろくな孝行も出来なかったが、これでまあ、いいかな、と思った。
 母君が亡くなったとき、北海道でのお別れの会で、私の作詞した、
『日本レクイエム』
 を浅川座長が歌い、嫋々たるヴァイオリンの余韻が北の空に消えていったと聞いたとき、私は母のことを思った。
 息子の「ありがとう」に味噌汁を作り続けた母の思い。
 アル中で、統合失調症で、コミュ障で、世間から見ればどうしようもない母だったが、あの母もやはり母親だったのだ、と。
 我が家では、夕食に、がっつりと具沢山の味噌汁を出す。
 息子は嫌がるが、とにかく食え、と。
 これが明日の体を作るのだから、と。
 もちろん、思い出という名の、心も。
2020年03月11日

伊佐山紫文530

妻がどうしても行ってこいというので、眼科を受診した。
 金曜日から充血して、夜には涙が止まらなくなっていたから。
 土曜の朝にはもう峠を過ぎ、大丈夫だと思っていたのに、どうしても行けと、日曜でも開いている眼科を妻がネットで調べて、行け、行け、とうるさいので仕方ない。
 こんなものはおそらく、そこらのザコウイルスの日和見感染による結膜炎で、原因の特定など不可能、つまり治療は無理、やり過ごすしかない種類のものだ。
 で、受診して、案の定、(おそらくは)ウイルス性結膜炎、目薬をもらったが、これが効くという訳ではない。
 症状の緩和だけ。
 それにしても、初めて、眼球の浮腫というのを体験した。
 目を閉じても、閉じきれないんですよ。
 眼球の透明な部分がむくんでいて。
 こんな状態で、浅川座長と飲みに行って、バーで馬鹿話までしてたんだから、症状が治まって御の字ですわ。
 どんな馬鹿話かって?
 こんなです。
 客の一人が、
「俺なんか、俳優になってたら、結構、いけてたと思うんやで。(夙川座の)舞台に出してや」
「なら、樹木なんかどうです? (両腕を広げ)こうやって「サワサワサワ」って感じで」
「こうか? サワサワサワ……」
 隣にいた若い衆が、
「樹木を人がやって、舞台として成立するんですか?」
「成立するやろ、ワシがこうやってサワサワサワ……」
「それ、樹木に見えませんよ」
「見えへんか? ほら、サワサワサワ……」
 あまりのことに、私が、
「あの、これ、冗談なんですけど……」
 冗談かいな! のツッコミもなく、ひたすらシラケてしまった。 
 これに限らず、私の冗談というものが全く通じてなくて、関西のボケツッコミ文化の奥深さを思い知らされましたわ。
 結膜炎、悪化しなくて良かった……
2020年03月11日

伊佐山紫文529

息子の小学校の卒業式はどうにかやれるようになって、それで聞いてみた。
「小学校どうだった?」
「楽しかったよ。けど……」
 やはり、低学年のころ、言葉の後れによる意思疎通がかなわなかったことが後を引いているらしい。
 今思えば、一歳児健診で頭周りが50センチを超すというのも異常事態で、脳のシナプス接続の速度が一定だとすれば、そりゃ物理的に色々問題が出てくるのも当然だ。
 その問題の出て来方が問題で、発達障害となかなか区別が付かない。
 三歳児健診の時にも、普段は難なくやれる積み木もギャー泣きで出来なかった。
 障害のある子と、それをかたくなに否定する親の図を、これから数年演じることになった。
 積み木と言えば私自身にも思い出がある。
 40を過ぎた頃の健診で、問診の時、一辺が三センチくらいの積み木を三つ、縦に積むように言われた。
 若い女医さんで、ニコニコと、
「さあ」
 と。 
 何をさせるんだと思ったが、そんなもの造作もない。
 今思えば、アル中がどれほど進んでいるかの検査だったのだろう。
 後にも先にも、こんなことをさせられたのはこの時だけで、と言うより、この病院に行ったのも、時期的にここしか開いておらず、仕方なく、のことだった。
 そもそも、検尿のトイレが男女共用というのもどうかと思う。
 私が検尿の紙コップを持って入っていくと、驚いたおばあちゃんが床にこぼしたぞ。
「減ってもうたがな。これで大丈夫やと思う?」
 いきなりコップを鼻先に突きつけられてもナァ……
 血液検査もなかなか針が静脈に至らず、内出血の痕は数日赤黒く残ったし、今でも左の上腕にはこの時のしこりのようなものがある。
 待合室の様子も酷かった。
 アル中らしきオヤジたちが罵り合ってるし。
「……やろ!」
「ちゃうがな、……やろ!」
 そもそも病院の待合室でカップ酒って、しかも、入院の服着て。
 後で見たら、病院のすぐ近くに酒の自販機がある。
 そりゃ、積み木も積ますわ、と今になっては思う。
 あれから十数年、子供も出来、酒はもちろん飲み続けているが、まだ積み木は大丈夫。
 積めなくなったら、考えます。
2020年03月11日

伊佐山紫文528

今回のコロナ騒ぎで、色々と調べてみた。
 このウイルス、肺に入らなければ軽い症状ですむが、肺に入ると、免疫が過剰に反応して正常な細胞をも攻撃するようになり、結果、呼吸が出来なくって死に至る、と。
 これって、普通の風邪じゃん。
 風邪をこじらせて肺炎で死ぬのと全く同じ。
 たとえば風邪と言われる症状をもたらすウイルスのうち最も多数を占めるライノウイルス属も同じような過程を経る。
 インフルエンザなどと違い、ウイルスそのものの毒性はほとんどなく、結局は人間側の免疫の問題であり、つまり、コロナも普通の風邪だと言うことだ。
 だったら、なぜ、これほど大騒ぎするのか。
 簡単に言えば、あの世が消え去ったからだ。
 あの世や天国を信じていられれば、死をこれほど忌み嫌うこともなかったろう。
 あの世や天国があったなら、ペストやコレラやスペイン風邪(インフルエンザ)で町内の知人がバタバタ死んでも、それはあの世や天国に行っただけ、大丈夫、また帰ってくるさ。
 みたいなもの。
 あの世や天国が消え失せ、世俗、つまりこの世だけが世界の全てになってしまえば、存在するのはこの身だけである。
 この身の死は即、自身にとっての世界の消滅であり、虚無の到来である。
 人間は宗教などの様々なストーリーを共有することで集団を成してきたのだが、その根底にあるのは虚無への根底的な怖れである。
 なぜなら、あらゆる宗教は死が終わりではないこと、決して虚無ではないことを繰り返し説く。
 それ自体、近代的な精神から見れば虚無でしかないが、それでも虚無に打ち勝つ、さらなる虚無を求めるのが人間であり、人間の集団なのである。
 人を人の集団へと結びつけるのは、虚無を虚無ではないと信じようとする祭式であり、逆に言えば、死という虚無である。
 今回、おそらくは全世界が、コロナによる死によって結びついた。
 中国の死ではなく、イタリアの死でもなく、単にテレビ画面の向こうにしかない抽象的な死であっても、この死は、あの世や天国の裏付けを欠く、むき出しの死である。
 十数万年前、死という概念を得た原初のヒトが怯えたように、マスコミは、死への怯えの声を増幅する。
 ただの風邪なのに、ただの風邪ではないのだ。
 この世に新しい死が一つ、付け加わったのだ。
 あの世や天国が消え失せた時代、これはもう、盛大にお祭りをするしかない。
 だから、勝手にやってくれ、とは言えない。
 とはいえ、早よやめて欲しい、というのが本音ではあるが。
プロフィール
notebook
notebook
学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

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