「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2020年03月11日

伊佐山紫文528

今回のコロナ騒ぎで、色々と調べてみた。
 このウイルス、肺に入らなければ軽い症状ですむが、肺に入ると、免疫が過剰に反応して正常な細胞をも攻撃するようになり、結果、呼吸が出来なくって死に至る、と。
 これって、普通の風邪じゃん。
 風邪をこじらせて肺炎で死ぬのと全く同じ。
 たとえば風邪と言われる症状をもたらすウイルスのうち最も多数を占めるライノウイルス属も同じような過程を経る。
 インフルエンザなどと違い、ウイルスそのものの毒性はほとんどなく、結局は人間側の免疫の問題であり、つまり、コロナも普通の風邪だと言うことだ。
 だったら、なぜ、これほど大騒ぎするのか。
 簡単に言えば、あの世が消え去ったからだ。
 あの世や天国を信じていられれば、死をこれほど忌み嫌うこともなかったろう。
 あの世や天国があったなら、ペストやコレラやスペイン風邪(インフルエンザ)で町内の知人がバタバタ死んでも、それはあの世や天国に行っただけ、大丈夫、また帰ってくるさ。
 みたいなもの。
 あの世や天国が消え失せ、世俗、つまりこの世だけが世界の全てになってしまえば、存在するのはこの身だけである。
 この身の死は即、自身にとっての世界の消滅であり、虚無の到来である。
 人間は宗教などの様々なストーリーを共有することで集団を成してきたのだが、その根底にあるのは虚無への根底的な怖れである。
 なぜなら、あらゆる宗教は死が終わりではないこと、決して虚無ではないことを繰り返し説く。
 それ自体、近代的な精神から見れば虚無でしかないが、それでも虚無に打ち勝つ、さらなる虚無を求めるのが人間であり、人間の集団なのである。
 人を人の集団へと結びつけるのは、虚無を虚無ではないと信じようとする祭式であり、逆に言えば、死という虚無である。
 今回、おそらくは全世界が、コロナによる死によって結びついた。
 中国の死ではなく、イタリアの死でもなく、単にテレビ画面の向こうにしかない抽象的な死であっても、この死は、あの世や天国の裏付けを欠く、むき出しの死である。
 十数万年前、死という概念を得た原初のヒトが怯えたように、マスコミは、死への怯えの声を増幅する。
 ただの風邪なのに、ただの風邪ではないのだ。
 この世に新しい死が一つ、付け加わったのだ。
 あの世や天国が消え失せた時代、これはもう、盛大にお祭りをするしかない。
 だから、勝手にやってくれ、とは言えない。
 とはいえ、早よやめて欲しい、というのが本音ではあるが。
2020年03月02日

伊佐山紫文527

息子が、
「トイレットペーパーが品薄なんだって」
 とか、
「食料、買い込んでおいた方がよくね?」
 などと、マスコミその他に毒された頭で提案してくる。
「不安なんだったら、ハッキリ、不安ですって言え」
「不安です!」
 そりゃ不安にもなるわな。
 だって、社会全体が不安をあおっているから。
 不安でなければ人にあらず、みたいな雰囲気さえある。
 けれど、これもまた人間の能力の一つで、
「困った時のことを考えて(困っていない今)困る」
 というものだ。
 もしこの能力が無かったら、人類は皆、飢えて死んでいただろう。
 食料がないときのことを考えて干し肉その他の保存食を作る、と。
 そういう、困った時のことを考えて困る能力があったからこそ、人類は生き残ってこられたのだ。
 としても、困った時のことを考えてトイレットペーパーを買い占めて、それでトイレットペーパーが品薄になって他の人が困る、というのは別の事態だと思う。
 たとえば、七十年代のオイルショックの時、トイレットペーパーどころか、紙そのものが高騰して、雑誌がどんどん薄くなっていった。
 実際にはパルプ不足など起きてはいなかったのに、誰かが高騰を見越してパルプを買い占める、と、そうなることを見越してあらかじめパルプを買い占め、と、それを見越して……の連鎖。
 で、実際品薄になると、消費者はトイレットペーパーを買い占めることで、現実に品薄は加速していく。
 これは需要と供給による全く自然な価格決定メカニズムであって、倫理的な問題とは別次元の経済現象である。
 と、当時、経済学者が言っていた。
 阪神大震災の時、一本六千円の焼き芋屋台とか言うのが出てテレビでは侃々諤々、それでも経済学者は「経済現象として当然です」と言っていた。
 まずは一本六千円の焼き芋屋台の存在を確認しろよ、と思ったが、東京のマスコミにそれを期待するのは酷というもの、その後、デマだったことが分かり、あの議論は何だったんだと検証するでもなく、同じような面々が今日もテレビで不安をあおっている。
 全く、人間とは学ばないものだと思う。
 そういえば、オイルショックの時、トイレットペーパーを買い占める人々を、共産主義者だった私の親父などは冷笑的に眺めつつ、
「バカどもが」
 などと罵っていたものだ。 
 で、結局、我が家ではトイレットペーパーが枯渇、買い占めていた知人に譲ってもらうことになった。
 人間には学ぶ能力がある。
 そろそろトイレットペーパー買って来ようかな。
 もう遅いか。
プロフィール
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学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

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