2017年09月17日
伊佐山紫文59
母は戦前の朝鮮半島に生まれ、家庭の事情で敗戦前に内地に引き上げて来ていた。
賢い家系で、きょうだいはみな優秀だったが、その中でもズバ抜けていた母を内地の親戚が跡取りに望んだのだった。
けれど、その計画も敗戦と植民地の放棄で潰え、母の肩には、引き上げて来た家族がどっしりと、のしかかることになる。
海軍軍医学校に通っていた弟も、軍隊の消滅で行き場を失い、望めば他の医大で学業を続けることも出来たのに、敗戦に力尽きて戻って来た。
朝鮮で医師をしていた父親は引き上げと戦後の混乱の中、惚けたようになって日田よりさらに田舎に引っ込み、当てにならない。
母は長女ではなかったが、ひとつ上の長女は幼い頃の脳膜炎が元で知恵遅れになり、実質的な家庭責任は次女である母が負うことになった。
中学(今の高校)を出て、そのころ日田にあった短大に進んで教員免許を取り、家族を支え続けた。
男だったら間違いなく東大に行ったと言われた母である。
ホントに惜しい、との声を、日田ではずいぶん聞いた。
学業のことは分からないが、絵が上手かったのはわかる。
特にデッサン力は異常である。
日田の誇る抽象画家・宇治山哲平からも「ミケランジェロ並」と絶賛された、そのデッサン力は、たとえば大分の特産である竹籠を、その竹ひごの位置や本数を全く違うことなく写し取るほどで、初めてスケッチブックを見たとき、ゾッとして鳥肌が出た。
けれど、油絵の画家としてはシロウトだった。
筆遣いが単調で、色に深みが無く、光をつかめていない。
デッサンならば恐ろしいほどの名作だが、絵の具を載せたとたん、凡庸なものになる。
これは当たり前で、若い頃になんの美術教育も受けていないのだから。
それで立派な絵が描けるほど油絵は甘くない。
そのことは母も分かっていて、それでも市美展の油彩部門で大賞を取るという夢捨てがたく、100号の大作を次々と独学で量産した。
独学というのが味噌で、母のようなギフテッド(天才児)は人間関係を構築するのが苦手、特に師弟関係を結べないのである。
誰の弟子でもないシロウトが展覧会で賞を取ろうと思えば、号数の大きい、迫力のある作品を描くしかない。
と、母は思い込んでいた。
これらの大作を時系列で観ると、ある時点から、精神の変調の兆しが見て取れる。
年次を経るごと、次第におかしくなる。
どんどん妙になる。
具体的な人物などを描いても色使いが異常で、しかも消失点がない。
見ていて落ち着かなくなってくる。
その原因が何なのか、私には謎だったが、母がガンの手術で入院したとき、台所の引き出しに統合失調症の薬を見つけ、思わず溜息が出た。
社会的不適応、統合失調症、そしてアルコール依存症。
適切なケアを受けられなかったギフテッド(天才児)の、典型的な転落人生である。
ギフテッド(天才児)は、勉強が出来るからといって放っておいていい存在ではない。
今流行りの「発達障害」のようなもので、その子にあった適切なケアが必要なのである。
母も、もし若くして家庭の経済を担わされず、経済的な余裕があったなら、間違いなく京大に進んでいただろう。
戦後の一時期、京大はアファーマティブ・アクションで女子学生を推薦で受け入れていたから。
男なら東大、という噂の立つような女子を学校が推薦しないわけがない。
実は、私の知人には、戦後のアファーマティブ・アクションで京大に入った女性が何人かいる。
もっとも、彼女等のその後の人生が幸福だったかと言えば、そうも言えないのが残念で仕方ないのだが、母よりはずっとマシなのは京大卒という肩書きがあったからだと思う。
ギフテッドに必要なのは周囲の理解と親の経済力、しかしこればかりは当人が望んで得られるものではない。
要するに運が良ければ逸脱しない、と。
運が良ければノーベル賞、そうでなければ失調症か依存症。
ギフテッドを巡るこの状況は、今の日本でも全く変わってはいない。
さて、母は硬膜下血腫での手術後、認知症が一時悪化して、私のことを歳の離れた弟だと思い込み、
「私たちゃ、エライ歳の離れちょるち、思わんかい。父ちゃん母ちゃん頑張ったつね」
と、いたずらっぽく穏やかに笑うのだった。
私も合わせて笑った。
これが10年ぶりに訪れた、親子の静かな談笑の時間だった。
病院から帰り、一人になると、なぜか泣けてきた。
それから少し回復し、私のことを息子だと認識できるようになると、退院したら日田のホールを借りて自分の絵をところ狭しと飾り、ダンスパーティをしながらオークションをするのだと、夢の計画を楽しそうに語るのだった。
もちろん、そんな計画が実現するはずもない。
そもそも母の企画に誰が来るというのだ。
若い頃から、何かイベントを企画し、宣伝し、それでも人が集まらず、招待したのに来ない人々への悪態をつきながら浴びるように酒を飲む。
教員を辞めて小料理屋を始め、失敗し、父の喫茶店を拡張し、それでも思ったほどの売り上げはなく、他人の不義理を恨みながら浴びるように酒を飲む。
この次こそ、この次こそと失敗を重ね、借金を重ね、父の言う「事業病」の母は呆けてなお健在だった。
ああ、ギフテッドの末路。
私は穏やかに肯き返していたが。
9年前、母が肺炎になったと聞き、まだ生後二ヶ月の息子を連れて日田に帰った。
待望の初孫との初対面である。
肺炎で意識は混濁していたが、息子を見せると、抱こうとして両腕を上げた。
それだけで力尽き、両腕は肘からベッドに力無く落ちて、初孫を抱くことはかなわなかった。
「かわいいやろ」と聞くと、
顎が頷いた。
その二日後、帰らぬ人となった。
賢い家系で、きょうだいはみな優秀だったが、その中でもズバ抜けていた母を内地の親戚が跡取りに望んだのだった。
けれど、その計画も敗戦と植民地の放棄で潰え、母の肩には、引き上げて来た家族がどっしりと、のしかかることになる。
海軍軍医学校に通っていた弟も、軍隊の消滅で行き場を失い、望めば他の医大で学業を続けることも出来たのに、敗戦に力尽きて戻って来た。
朝鮮で医師をしていた父親は引き上げと戦後の混乱の中、惚けたようになって日田よりさらに田舎に引っ込み、当てにならない。
母は長女ではなかったが、ひとつ上の長女は幼い頃の脳膜炎が元で知恵遅れになり、実質的な家庭責任は次女である母が負うことになった。
中学(今の高校)を出て、そのころ日田にあった短大に進んで教員免許を取り、家族を支え続けた。
男だったら間違いなく東大に行ったと言われた母である。
ホントに惜しい、との声を、日田ではずいぶん聞いた。
学業のことは分からないが、絵が上手かったのはわかる。
特にデッサン力は異常である。
日田の誇る抽象画家・宇治山哲平からも「ミケランジェロ並」と絶賛された、そのデッサン力は、たとえば大分の特産である竹籠を、その竹ひごの位置や本数を全く違うことなく写し取るほどで、初めてスケッチブックを見たとき、ゾッとして鳥肌が出た。
けれど、油絵の画家としてはシロウトだった。
筆遣いが単調で、色に深みが無く、光をつかめていない。
デッサンならば恐ろしいほどの名作だが、絵の具を載せたとたん、凡庸なものになる。
これは当たり前で、若い頃になんの美術教育も受けていないのだから。
それで立派な絵が描けるほど油絵は甘くない。
そのことは母も分かっていて、それでも市美展の油彩部門で大賞を取るという夢捨てがたく、100号の大作を次々と独学で量産した。
独学というのが味噌で、母のようなギフテッド(天才児)は人間関係を構築するのが苦手、特に師弟関係を結べないのである。
誰の弟子でもないシロウトが展覧会で賞を取ろうと思えば、号数の大きい、迫力のある作品を描くしかない。
と、母は思い込んでいた。
これらの大作を時系列で観ると、ある時点から、精神の変調の兆しが見て取れる。
年次を経るごと、次第におかしくなる。
どんどん妙になる。
具体的な人物などを描いても色使いが異常で、しかも消失点がない。
見ていて落ち着かなくなってくる。
その原因が何なのか、私には謎だったが、母がガンの手術で入院したとき、台所の引き出しに統合失調症の薬を見つけ、思わず溜息が出た。
社会的不適応、統合失調症、そしてアルコール依存症。
適切なケアを受けられなかったギフテッド(天才児)の、典型的な転落人生である。
ギフテッド(天才児)は、勉強が出来るからといって放っておいていい存在ではない。
今流行りの「発達障害」のようなもので、その子にあった適切なケアが必要なのである。
母も、もし若くして家庭の経済を担わされず、経済的な余裕があったなら、間違いなく京大に進んでいただろう。
戦後の一時期、京大はアファーマティブ・アクションで女子学生を推薦で受け入れていたから。
男なら東大、という噂の立つような女子を学校が推薦しないわけがない。
実は、私の知人には、戦後のアファーマティブ・アクションで京大に入った女性が何人かいる。
もっとも、彼女等のその後の人生が幸福だったかと言えば、そうも言えないのが残念で仕方ないのだが、母よりはずっとマシなのは京大卒という肩書きがあったからだと思う。
ギフテッドに必要なのは周囲の理解と親の経済力、しかしこればかりは当人が望んで得られるものではない。
要するに運が良ければ逸脱しない、と。
運が良ければノーベル賞、そうでなければ失調症か依存症。
ギフテッドを巡るこの状況は、今の日本でも全く変わってはいない。
さて、母は硬膜下血腫での手術後、認知症が一時悪化して、私のことを歳の離れた弟だと思い込み、
「私たちゃ、エライ歳の離れちょるち、思わんかい。父ちゃん母ちゃん頑張ったつね」
と、いたずらっぽく穏やかに笑うのだった。
私も合わせて笑った。
これが10年ぶりに訪れた、親子の静かな談笑の時間だった。
病院から帰り、一人になると、なぜか泣けてきた。
それから少し回復し、私のことを息子だと認識できるようになると、退院したら日田のホールを借りて自分の絵をところ狭しと飾り、ダンスパーティをしながらオークションをするのだと、夢の計画を楽しそうに語るのだった。
もちろん、そんな計画が実現するはずもない。
そもそも母の企画に誰が来るというのだ。
若い頃から、何かイベントを企画し、宣伝し、それでも人が集まらず、招待したのに来ない人々への悪態をつきながら浴びるように酒を飲む。
教員を辞めて小料理屋を始め、失敗し、父の喫茶店を拡張し、それでも思ったほどの売り上げはなく、他人の不義理を恨みながら浴びるように酒を飲む。
この次こそ、この次こそと失敗を重ね、借金を重ね、父の言う「事業病」の母は呆けてなお健在だった。
ああ、ギフテッドの末路。
私は穏やかに肯き返していたが。
9年前、母が肺炎になったと聞き、まだ生後二ヶ月の息子を連れて日田に帰った。
待望の初孫との初対面である。
肺炎で意識は混濁していたが、息子を見せると、抱こうとして両腕を上げた。
それだけで力尽き、両腕は肘からベッドに力無く落ちて、初孫を抱くことはかなわなかった。
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顎が頷いた。
その二日後、帰らぬ人となった。
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