2017年10月06日
伊佐山紫文81
夙川座10月21日公演『恋の名残 新説・曽根崎心中』の練習が佳境に入ってきた。
昨年4月に神戸酒心館でやったものとはヴァージョンが違い、歌手に強いる台詞と演技も相当に過酷なものとなっているのだが、そこはもう、それぞれの努力で役に入って来ている。
役を演じると言う意味では、原作の『曽根崎心中』は相当に難しい演目だと思う。
そもそも、なぜお初が一緒に死ぬのか、原作だけではその理由がわからない。
徳兵衛の金銭的破滅はよく分かるし、そこに至る過程は事細かに描かれている。
でも、なぜ、それに随って、お初も死んでしまうのか。
原作だけではサッパリ分からない。
今回の「恋の名残」では、オリジナルのキャラクター「お鈴」を作り、お初との会話の中で、心中に至る宗教的心理的な過程を丁寧に描いたつもりである。
こういう作業を通じて痛感するのは、日本と西洋の作劇法の違い、何というか、省略の美と装飾の美、あるいは寡黙の力と饒舌の力、語られぬものに語らすか、語るものが徹底的に語るか、といった、根底的な差異である。
明治期の精神改良運動、近代的自我を確立せよと言った運動が真っ先に手を付けたのが演劇だったのもよく分かる。
西洋の近代演劇の基準で考えれば、歌舞伎だの文楽だのは説明足らずの意味不明で支離滅裂な「何か」に過ぎない。
こんなものを観ていては「近代的自我」が育つわけがない、と。
まずは演劇を改良しないといけない、と。
名目は上流階級も観ていられる上質の演劇を目指す、と言うことだったが、制作するインテリの側からすれば、それはまさに精神改良運動、近代的自我を確立するための運動に他ならなかった。
それでは彼等、明治のインテリたちの考えた近代的自我とは何だったのか。
私が思うに、それは、言葉の狭い意味での弁証法的な自我である。
つまり対話を通じて真理に至るという、プラトンからヘーゲルへと綿々と受け継がれて来た、西洋哲学の伝統に沿う自我である。
A(テーゼ)という価値観とB(アンチテーゼ)という価値観がぶつかり合い、どちらかが勝ち、あるいはどちらも敗北し(アウフヘーベン)、あるいはCという新しい価値観(ジンテーゼ)が生まれる。
そういう、価値同士のドラマが西洋演劇の根底にはある。
そこではそれぞれの価値観を登場人物がぶつけ合い、言い負かし、あるいは言い負けて、殺し殺され、泣き笑い、生き残った者はひたすら嘆き、あるいは勝ち誇る。
その価値の担い手が近代的自我であり、個性であり、キャラクターである。
価値の担い手である近代的自我同士のせめぎ合いこそが西洋演劇のドラマツルギー(作劇法)に他ならぬ。
これに対し、日本の演劇は「勧善懲悪」として批判された。
そこには価値観のせめぎ合いがない。
良いものは二枚目として固定化しており、悪役は見るからに悪い。
自分自身の価値と個性を担った近代的自我がない。
だから結論は最初から分かっている。
善は勝ち、悪は滅ぶ。
これのどこがドラマなんだ、というわけだ。
西洋的なドラマを見慣れてしまった我々には、日本の歌舞伎や文楽もそれなりに面白く、全く別物として鑑賞できるが、明治期のインテリたちの目にはただただ恥ずかしい、遅れた、幼稚なものに見えただろうことは容易に想像できる。
今回、と言うか、前回の夙川座公演『神戸事件始末 瀧善三郎の最期』でも、私は全面的に西洋的な作劇法に依っている。
せめぎ合う価値観は「生」と「死」である。
前回は「切腹」、今回は「心中」。
原作とは異なるラストに賛否両論、して欲しいと、私の近代的自我は願っているのだが。
昨年4月に神戸酒心館でやったものとはヴァージョンが違い、歌手に強いる台詞と演技も相当に過酷なものとなっているのだが、そこはもう、それぞれの努力で役に入って来ている。
役を演じると言う意味では、原作の『曽根崎心中』は相当に難しい演目だと思う。
そもそも、なぜお初が一緒に死ぬのか、原作だけではその理由がわからない。
徳兵衛の金銭的破滅はよく分かるし、そこに至る過程は事細かに描かれている。
でも、なぜ、それに随って、お初も死んでしまうのか。
原作だけではサッパリ分からない。
今回の「恋の名残」では、オリジナルのキャラクター「お鈴」を作り、お初との会話の中で、心中に至る宗教的心理的な過程を丁寧に描いたつもりである。
こういう作業を通じて痛感するのは、日本と西洋の作劇法の違い、何というか、省略の美と装飾の美、あるいは寡黙の力と饒舌の力、語られぬものに語らすか、語るものが徹底的に語るか、といった、根底的な差異である。
明治期の精神改良運動、近代的自我を確立せよと言った運動が真っ先に手を付けたのが演劇だったのもよく分かる。
西洋の近代演劇の基準で考えれば、歌舞伎だの文楽だのは説明足らずの意味不明で支離滅裂な「何か」に過ぎない。
こんなものを観ていては「近代的自我」が育つわけがない、と。
まずは演劇を改良しないといけない、と。
名目は上流階級も観ていられる上質の演劇を目指す、と言うことだったが、制作するインテリの側からすれば、それはまさに精神改良運動、近代的自我を確立するための運動に他ならなかった。
それでは彼等、明治のインテリたちの考えた近代的自我とは何だったのか。
私が思うに、それは、言葉の狭い意味での弁証法的な自我である。
つまり対話を通じて真理に至るという、プラトンからヘーゲルへと綿々と受け継がれて来た、西洋哲学の伝統に沿う自我である。
A(テーゼ)という価値観とB(アンチテーゼ)という価値観がぶつかり合い、どちらかが勝ち、あるいはどちらも敗北し(アウフヘーベン)、あるいはCという新しい価値観(ジンテーゼ)が生まれる。
そういう、価値同士のドラマが西洋演劇の根底にはある。
そこではそれぞれの価値観を登場人物がぶつけ合い、言い負かし、あるいは言い負けて、殺し殺され、泣き笑い、生き残った者はひたすら嘆き、あるいは勝ち誇る。
その価値の担い手が近代的自我であり、個性であり、キャラクターである。
価値の担い手である近代的自我同士のせめぎ合いこそが西洋演劇のドラマツルギー(作劇法)に他ならぬ。
これに対し、日本の演劇は「勧善懲悪」として批判された。
そこには価値観のせめぎ合いがない。
良いものは二枚目として固定化しており、悪役は見るからに悪い。
自分自身の価値と個性を担った近代的自我がない。
だから結論は最初から分かっている。
善は勝ち、悪は滅ぶ。
これのどこがドラマなんだ、というわけだ。
西洋的なドラマを見慣れてしまった我々には、日本の歌舞伎や文楽もそれなりに面白く、全く別物として鑑賞できるが、明治期のインテリたちの目にはただただ恥ずかしい、遅れた、幼稚なものに見えただろうことは容易に想像できる。
今回、と言うか、前回の夙川座公演『神戸事件始末 瀧善三郎の最期』でも、私は全面的に西洋的な作劇法に依っている。
せめぎ合う価値観は「生」と「死」である。
前回は「切腹」、今回は「心中」。
原作とは異なるラストに賛否両論、して欲しいと、私の近代的自我は願っているのだが。
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