2018年08月20日
伊佐山紫文195
『あなたの知らない脳ー意識は傍観者である』
デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
凶悪殺人者の脳を調べたら脳腫瘍があった。
脳腫瘍のせいで起こした犯罪を責められるのか。
脳神経科学は刑法の根幹に重い問いを投げかける。
デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
凶悪殺人者の脳を調べたら脳腫瘍があった。
脳腫瘍のせいで起こした犯罪を責められるのか。
脳神経科学は刑法の根幹に重い問いを投げかける。
2018年08月20日
伊佐山紫文194
180809
第18回全国障がい者芸術・文化祭「舞台演劇~島ひきおに~」
配役も決まり、充実した稽古が進んでいます。
“そらは金色”は音楽監督です←えらそう(゚o゚;)
出遅れつつも、曲づくり、一段落。ここだけの話、自信作です!!
本番は10月7日(日)13:30~
「パトリア日田」大ホール
第18回全国障がい者芸術・文化祭「舞台演劇~島ひきおに~」
配役も決まり、充実した稽古が進んでいます。
“そらは金色”は音楽監督です←えらそう(゚o゚;)
出遅れつつも、曲づくり、一段落。ここだけの話、自信作です!!
本番は10月7日(日)13:30~
「パトリア日田」大ホール
2018年08月20日
伊佐山紫文194
ショルティ指揮のヴァーグナー『リング』を何年ぶりかで聞き直した。
何しろ録音が素晴らしい。
歌詞が細部までクッキリと聞こえる。
で、つまらないことに気づいた。
第二夜『ジークフリート』の第三幕、ジークフリートが眠れるブリュンヒルデを見ての驚愕の一言、
「Das ist kein Mann!」
添付のパンフレットでの英訳は
「That's no man!」
同様に仏訳は、
「Ce n'est pas un homme!」
井形ちづる先生の訳(『ヴァーグナー オペラ楽劇全作品対訳集』水曜社)では
「男じゃない!」
この台詞、ヴァーグナーの詳細なト書きによれば、ジークフリートがブリュンヒルデの甲冑を一つずつ外し、その下にある女装(weiblichen Gewande)に気づいて発せられることになっているのだが、CDだからその辺りは想像するしかない。
だから、どう聞いたって、ヴィントガッセンのジークフリートはこう叫んでいるようにしか聞こえない。
「Das ist kein Mann!(チ○コねぇ~!)」
何しろ録音が素晴らしい。
歌詞が細部までクッキリと聞こえる。
で、つまらないことに気づいた。
第二夜『ジークフリート』の第三幕、ジークフリートが眠れるブリュンヒルデを見ての驚愕の一言、
「Das ist kein Mann!」
添付のパンフレットでの英訳は
「That's no man!」
同様に仏訳は、
「Ce n'est pas un homme!」
井形ちづる先生の訳(『ヴァーグナー オペラ楽劇全作品対訳集』水曜社)では
「男じゃない!」
この台詞、ヴァーグナーの詳細なト書きによれば、ジークフリートがブリュンヒルデの甲冑を一つずつ外し、その下にある女装(weiblichen Gewande)に気づいて発せられることになっているのだが、CDだからその辺りは想像するしかない。
だから、どう聞いたって、ヴィントガッセンのジークフリートはこう叫んでいるようにしか聞こえない。
「Das ist kein Mann!(チ○コねぇ~!)」
2018年08月20日
伊佐山紫文193
この二月ほどかかり切りになっていた脚本の第一稿がやっとあがった。
10曲の挿入歌の歌詞は早めに上がっていたのだけれど、やはり今回も、歴史的事実と創作のバランスに悩まされた。
淡々とした事実の列挙ではドラマにはならないし、芝居としてドラマティックにすれば事実からは離れてしまう。
まあ、ものは言いようで、舞台が描くのは「事実」ではなく「真実」だという。
この場合の「真実」とは、作者が抽象した歴史的事件の「本質」が具象化したものとも言えるだろう。
つまり、一度作者が把握し抽象した「本質」を、こんどは作品の「真実」として描くということだ。
歴史家はその「本質」を「事実」をもって再構成するが、劇作家は「本質」を「真実」としてドラマを描く。
劇作家の捉えた「本質」が本当にその事件の「本質」であるか、それは描かれたドラマの「真実」を通して判断して貰うしかない。
つまり観客がその「真実」に感動するかどうか、だと思う。
『清流、我を抱け 日田義民伝』
上演場所・時期など全く未定です。
10曲の挿入歌の歌詞は早めに上がっていたのだけれど、やはり今回も、歴史的事実と創作のバランスに悩まされた。
淡々とした事実の列挙ではドラマにはならないし、芝居としてドラマティックにすれば事実からは離れてしまう。
まあ、ものは言いようで、舞台が描くのは「事実」ではなく「真実」だという。
この場合の「真実」とは、作者が抽象した歴史的事件の「本質」が具象化したものとも言えるだろう。
つまり、一度作者が把握し抽象した「本質」を、こんどは作品の「真実」として描くということだ。
歴史家はその「本質」を「事実」をもって再構成するが、劇作家は「本質」を「真実」としてドラマを描く。
劇作家の捉えた「本質」が本当にその事件の「本質」であるか、それは描かれたドラマの「真実」を通して判断して貰うしかない。
つまり観客がその「真実」に感動するかどうか、だと思う。
『清流、我を抱け 日田義民伝』
上演場所・時期など全く未定です。
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