2020年05月18日
Yo持続化給付金の歌 三品響子さん!
2020年05月18日
YouTube 夙川座チャンネル、です。23回目
2020年05月17日
「持続化給付金」の歌 三品響子
2020年05月16日
YouTube 夙川座チャンネル、です! 22回目
以前は、ブログ2万フォロワーを持ち、それが本にもなっていた伊佐山さんです。
その頃はブログ内炎上などもしていました。
今はそういった役目は終えたそうです。
https://youtu.be/Q_60vHKdmQA
その頃はブログ内炎上などもしていました。
今はそういった役目は終えたそうです。
https://youtu.be/Q_60vHKdmQA
2020年05月15日
YouTube 夙川座チャンネル、です。21回目
人の生き方を変えることが目的だったロシア革命、なんですと。
本日の伊佐山本は、「共産主義黒書 ソ連編」
ガチガチの共産主義者で日本共産党からも危険人物として出されてしまったというお父様をお持ちだった伊佐山がこの本を読んだのはいつだったのでしょうね。
https://youtu.be/VfvgCVRNiTA
本日の伊佐山本は、「共産主義黒書 ソ連編」
ガチガチの共産主義者で日本共産党からも危険人物として出されてしまったというお父様をお持ちだった伊佐山がこの本を読んだのはいつだったのでしょうね。
https://youtu.be/VfvgCVRNiTA
2020年05月14日
YouTube 夙川座チャンネル、です。20回目
2020年05月13日
YouTube 夙川座チャンネル、です。19回目
2020年05月13日
伊佐山紫文564
「コロナ開けの夜」フリムル「Song of the Vagabonds放浪者の歌(蒲田行進曲)」
この音源でも40秒辺りから。
臨場感あります。
春も過ぎて梅雨になれば
コロナも終わり
店も開く人も動く
自由の天地
飲み会! 女子会! 無礼講!
コロナ騒ぎをつまみして
みんなで行こう、みんなで飲もう
コロナ開けの夜
こちらの音楽に合わせて歌ってください!
はりきって、どうぞ!
https://youtu.be/XxQYRQT3OC8
この音源でも40秒辺りから。
臨場感あります。
春も過ぎて梅雨になれば
コロナも終わり
店も開く人も動く
自由の天地
飲み会! 女子会! 無礼講!
コロナ騒ぎをつまみして
みんなで行こう、みんなで飲もう
コロナ開けの夜
こちらの音楽に合わせて歌ってください!
はりきって、どうぞ!
https://youtu.be/XxQYRQT3OC8
2020年05月12日
YouTube 夙川座チャンネル、です。18回目
2020年05月12日
伊佐山紫文563
コロナ過で学校が止まってしまい、中一になる息子と一日過ごしている。
昨日は担任が家に来て、どっさりと教材を置いて行った。
宿題も。
その中に、一日をどう過ごしているか、円グラフで示せと言うのがある。
息子が定規で円グラフに何やら書いているので、見ると、睡眠以外の一日の大半が、
「ほぼ自由」
なんだそりゃ。
「ちゃんと、ネットって書けよ」
「ゲームもしてるし」
「じゃあ、ネットかゲームだろ。そもそも「ほぼ」って何だよ」
「たまにお父さんに言われて英語するから」
確かに、中一英語の問題集も二巡目に入ったし、やってることはやってますね。
「ほぼ自由」
名言ですわ。
今日も「ほぼ」を使わせてもらいます。
昨日は担任が家に来て、どっさりと教材を置いて行った。
宿題も。
その中に、一日をどう過ごしているか、円グラフで示せと言うのがある。
息子が定規で円グラフに何やら書いているので、見ると、睡眠以外の一日の大半が、
「ほぼ自由」
なんだそりゃ。
「ちゃんと、ネットって書けよ」
「ゲームもしてるし」
「じゃあ、ネットかゲームだろ。そもそも「ほぼ」って何だよ」
「たまにお父さんに言われて英語するから」
確かに、中一英語の問題集も二巡目に入ったし、やってることはやってますね。
「ほぼ自由」
名言ですわ。
今日も「ほぼ」を使わせてもらいます。
2020年05月11日
YouTube 夙川座チャンネル、です。17回目
2020年05月10日
YouTube 夙川座チャンネル、です。15回目
2020年05月09日
YouTube 夙川座チャンネル、です。15回目
2020年05月09日
「持続化給付金」の歌!YouTube
2020年05月09日
YouTube 夙川座チャンネル、です。14回目
2020年05月09日
伊佐山紫文561
コロナ休みで息子の元に膨大な宿題が届けられた。
これがまた、トンデモの連発で、やらせたものかどうか迷うところだ。
「こんなもの、やらんでも良い」
と言ってみても、息子は、
「最初が大事、やらなきゃ、宿題もしない人間だと思われてしまうだろ」
と、アホな問題に取り組んでいる。
う~ん、私のような人間には謎だ。
なぜ時間の無駄でしかない理不尽な仕事を黙々とやれるのか。
カントは『実践理性批判』の結びで「我が上なる星空と、我が内面の道徳律」に対して畏敬の念を表明したが、それはそれ、あの時代の話である。
まだダーウィニズムもなく、人間は神の似姿だと言われた時代、道徳律こそ、カントにとっては神の存在証明だった。
メンデリズムを得たネオ・ダーウィニズムにゲーム理論も加えた社会生物学を経た我々は、道徳律を進化心理学で説明することが出来る。
まあ、詳細は省くが、結論として、学校から言われたことはやっといた方が良い。
その方が生き残れる可能性が高く、結果、子孫を残せる。
自分の頭で考え、試行錯誤を繰り返す個体は、その過程で死ぬ可能性が高い。
もちろん、進化を担うのは試行錯誤の個体なのだが、その試行錯誤の個体は99.99999%無駄死にする。
その無駄死にによって進化した我々の内面には、矛盾するようだが、無駄死にせぬような安全装置、つまり道徳律がしっかりと築かれている。
掟を守ることと、破ること。
善と悪。
自由と規律。
それらの二項対立も、進化の過程で獲得した道徳律と試行錯誤の絶妙なバランスの結果であり、だからこそ呑気に議論していられるのだ。
私が下らぬ宿題などやるなと言っても、息子はやるという。
すべてはバランスであり、だから世の中は成り立っているんだろう。
それにしても、気温を考慮に入れないコロナ感染者数の議論など全くのナンセンスだと思うのだが、これも学校の宿題の類いか。
これがまた、トンデモの連発で、やらせたものかどうか迷うところだ。
「こんなもの、やらんでも良い」
と言ってみても、息子は、
「最初が大事、やらなきゃ、宿題もしない人間だと思われてしまうだろ」
と、アホな問題に取り組んでいる。
う~ん、私のような人間には謎だ。
なぜ時間の無駄でしかない理不尽な仕事を黙々とやれるのか。
カントは『実践理性批判』の結びで「我が上なる星空と、我が内面の道徳律」に対して畏敬の念を表明したが、それはそれ、あの時代の話である。
まだダーウィニズムもなく、人間は神の似姿だと言われた時代、道徳律こそ、カントにとっては神の存在証明だった。
メンデリズムを得たネオ・ダーウィニズムにゲーム理論も加えた社会生物学を経た我々は、道徳律を進化心理学で説明することが出来る。
まあ、詳細は省くが、結論として、学校から言われたことはやっといた方が良い。
その方が生き残れる可能性が高く、結果、子孫を残せる。
自分の頭で考え、試行錯誤を繰り返す個体は、その過程で死ぬ可能性が高い。
もちろん、進化を担うのは試行錯誤の個体なのだが、その試行錯誤の個体は99.99999%無駄死にする。
その無駄死にによって進化した我々の内面には、矛盾するようだが、無駄死にせぬような安全装置、つまり道徳律がしっかりと築かれている。
掟を守ることと、破ること。
善と悪。
自由と規律。
それらの二項対立も、進化の過程で獲得した道徳律と試行錯誤の絶妙なバランスの結果であり、だからこそ呑気に議論していられるのだ。
私が下らぬ宿題などやるなと言っても、息子はやるという。
すべてはバランスであり、だから世の中は成り立っているんだろう。
それにしても、気温を考慮に入れないコロナ感染者数の議論など全くのナンセンスだと思うのだが、これも学校の宿題の類いか。
2020年05月09日
伊佐山紫文561
コロナ休みで息子の元に膨大な宿題が届けられた。
これがまた、トンデモの連発で、やらせたものかどうか迷うところだ。
「こんなもの、やらんでも良い」
と言ってみても、息子は、
「最初が大事、やらなきゃ、宿題もしない人間だと思われてしまうだろ」
と、アホな問題に取り組んでいる。
う~ん、私のような人間には謎だ。
なぜ時間の無駄でしかない理不尽な仕事を黙々とやれるのか。
カントは『実践理性批判』の結びで「我が上なる星空と、我が内面の道徳律」に対して畏敬の念を表明したが、それはそれ、あの時代の話である。
まだダーウィニズムもなく、人間は神の似姿だと言われた時代、道徳律こそ、カントにとっては神の存在証明だった。
メンデリズムを得たネオ・ダーウィニズムにゲーム理論も加えた社会生物学を経た我々は、道徳律を進化心理学で説明することが出来る。
まあ、詳細は省くが、結論として、学校から言われたことはやっといた方が良い。
その方が生き残れる可能性が高く、結果、子孫を残せる。
自分の頭で考え、試行錯誤を繰り返す個体は、その過程で死ぬ可能性が高い。
もちろん、進化を担うのは試行錯誤の個体なのだが、その試行錯誤の個体は99.99999%無駄死にする。
その無駄死にによって進化した我々の内面には、矛盾するようだが、無駄死にせぬような安全装置、つまり道徳律がしっかりと築かれている。
掟を守ることと、破ること。
善と悪。
自由と規律。
それらの二項対立も、進化の過程で獲得した道徳律と試行錯誤の絶妙なバランスの結果であり、だからこそ呑気に議論していられるのだ。
私が下らぬ宿題などやるなと言っても、息子はやるという。
すべてはバランスであり、だから世の中は成り立っているんだろう。
それにしても、気温を考慮に入れないコロナ感染者数の議論など全くのナンセンスだと思うのだが、これも学校の宿題の類いか。
これがまた、トンデモの連発で、やらせたものかどうか迷うところだ。
「こんなもの、やらんでも良い」
と言ってみても、息子は、
「最初が大事、やらなきゃ、宿題もしない人間だと思われてしまうだろ」
と、アホな問題に取り組んでいる。
う~ん、私のような人間には謎だ。
なぜ時間の無駄でしかない理不尽な仕事を黙々とやれるのか。
カントは『実践理性批判』の結びで「我が上なる星空と、我が内面の道徳律」に対して畏敬の念を表明したが、それはそれ、あの時代の話である。
まだダーウィニズムもなく、人間は神の似姿だと言われた時代、道徳律こそ、カントにとっては神の存在証明だった。
メンデリズムを得たネオ・ダーウィニズムにゲーム理論も加えた社会生物学を経た我々は、道徳律を進化心理学で説明することが出来る。
まあ、詳細は省くが、結論として、学校から言われたことはやっといた方が良い。
その方が生き残れる可能性が高く、結果、子孫を残せる。
自分の頭で考え、試行錯誤を繰り返す個体は、その過程で死ぬ可能性が高い。
もちろん、進化を担うのは試行錯誤の個体なのだが、その試行錯誤の個体は99.99999%無駄死にする。
その無駄死にによって進化した我々の内面には、矛盾するようだが、無駄死にせぬような安全装置、つまり道徳律がしっかりと築かれている。
掟を守ることと、破ること。
善と悪。
自由と規律。
それらの二項対立も、進化の過程で獲得した道徳律と試行錯誤の絶妙なバランスの結果であり、だからこそ呑気に議論していられるのだ。
私が下らぬ宿題などやるなと言っても、息子はやるという。
すべてはバランスであり、だから世の中は成り立っているんだろう。
それにしても、気温を考慮に入れないコロナ感染者数の議論など全くのナンセンスだと思うのだが、これも学校の宿題の類いか。
2020年05月07日
YouTube 夙川座チャンネル、です。13回目
2020年05月07日
伊佐山紫文560
連休が明け、特になんと言うこともない朝が訪れた。
人が休みと決めようが、出勤と決めようが、夜は明け、朝は来る。
もし人間に永遠の生命が与えられていたなら、全ての期日は平等で、連休どころか、年末年始の行事など、何もなかったことだろう。
ただ、実際には、人間の生命は限られており、だからこそ、そのことを思い起こすために、盆暮れ正月などの行事がある。
たとえば一休さんの歌とされる、
門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
は、そのことを端的に詠んでいる。
キリスト教で言えば、
「メメント・モリ(死を思え)」
である。
「死」を思いつつ、そのことで今の自らの「生」を生き生きと生きる。
様々な民族の神話を読む限り、「死」によって「生」を活性化するのは人類共通の性質と言えるだろう。
人間の「死」は、人間の「生」の喜びを際立たせるのだ。
その「死」は絶対的なものであり、そもそも「数」ではない。
「死」がそこにあることが問題なのだ。
したがって「死」を前提にした疫学や統計学など不吉極まりない邪宗である。
数えてはならない、絶対的なものとして「死」はあるのだ。
そして「死」によって隠蔽されつつ、際立つのは「性」である。
人は、濃厚接触、という言葉に何を思い浮かべるだろうか。
そのような言葉がなぜ好まれるのか。
政府がどれだけ定義しようが、50代男性と20代女性という突出した数字は「性」の一文字を際立たせる。
人間が生き物である限り「生」と「死」を巡る「性」の神話は続く。
人が休みと決めようが、出勤と決めようが、夜は明け、朝は来る。
もし人間に永遠の生命が与えられていたなら、全ての期日は平等で、連休どころか、年末年始の行事など、何もなかったことだろう。
ただ、実際には、人間の生命は限られており、だからこそ、そのことを思い起こすために、盆暮れ正月などの行事がある。
たとえば一休さんの歌とされる、
門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
は、そのことを端的に詠んでいる。
キリスト教で言えば、
「メメント・モリ(死を思え)」
である。
「死」を思いつつ、そのことで今の自らの「生」を生き生きと生きる。
様々な民族の神話を読む限り、「死」によって「生」を活性化するのは人類共通の性質と言えるだろう。
人間の「死」は、人間の「生」の喜びを際立たせるのだ。
その「死」は絶対的なものであり、そもそも「数」ではない。
「死」がそこにあることが問題なのだ。
したがって「死」を前提にした疫学や統計学など不吉極まりない邪宗である。
数えてはならない、絶対的なものとして「死」はあるのだ。
そして「死」によって隠蔽されつつ、際立つのは「性」である。
人は、濃厚接触、という言葉に何を思い浮かべるだろうか。
そのような言葉がなぜ好まれるのか。
政府がどれだけ定義しようが、50代男性と20代女性という突出した数字は「性」の一文字を際立たせる。
人間が生き物である限り「生」と「死」を巡る「性」の神話は続く。
2020年05月06日
YouTube 夙川座チャンネル、です。12回目
最近の記事
11月21日日曜日大阪で上方ミュージカル! (7/24)
リモート稽古 (7/22)
11月21日(日)大阪にて、舞台「火の鳥 晶子と鉄幹」 (7/22)
茂木山スワン×伊佐山紫文 写真展 (5/5)
ヘアサロン「ボザール」の奇跡 (2/28)
ヘアサロン「ボザール」の奇跡 (2/26)
ヘアサロン「ボザール」の奇跡 (2/25)
yutube配信前、数日の会話です。 (2/25)
初の、zoom芝居配信しました! (2/24)
過去記事
最近のコメント
notebook / 9月16土曜日 コープ神戸公演
岡山新選組の新八参上 / 9月16土曜日 コープ神戸公演
notebook / ムラマツリサイタルホール新・・・
山岸 / 九州水害について
岡山新選組の新八参上 / 港都KOBE芸術祭プレイベント
お気に入り
ブログ内検索
QRコード

アクセスカウンタ
読者登録