2019年01月07日
伊佐山紫文264
御用納めの今日、今年を振り返ってみよう。
夙川座主催公演は『ふたりのヨシコ 李香蘭と男装の麗人』だけだったが、他団体との共催(「侍祭(さむらいまつり)」での『平和の新地』)や企画協力(大阪音楽大学「大人の会」)、また脚本を提供したイベント(舞台演劇『島ひきおに』)が故郷・日田で開かれるなど、仕事の幅は広がったと思う。
もちろん、利益というにはほど遠い仕事内容でしかないし、こちらの思惑が空回りした年でもあった。
そんななか、ひとつ、はっきりしたことがある。
それは、夙川座は日本語の会社だということである。
日本語で作品を提供し、日本語の妙味を味わってもらう。
特に関西では、関西弁での上演にこだわって。
もちろん、ここに、東京への対抗意識とか、そんなのはみじんもない。
そもそも浅川座長(社長)は北海道出身だし、私は九州男児である。
日本の北と南からやってきたよそ者二人が、自由な気風の関西で、それを良いことに好き放題やってるというのが実態である。
そんなよそ者の目から見れば、関西人の歌手が、関西人の観客相手に、慣れない標準語で芝居するのは絶対におかしい。
それは、日本人が、日本人相手に、イタリア語のオペラを演じるのとはわけがちがう。
オペラの場合は、オリジナルが外語なんだから仕方ない。
なのに、これから作るオリジナルで、関西人が演じ、関西で上演するものを、標準語でやる意味があるのか。
日田でやった芝居『しまひき鬼』の脚本も、本来なら日田弁で書くべきだったとは思うけれど、原作の縛りがあるのでしかたなかった。
もちろん、私は九州男児だから、関西弁のネイティブが作品を検討すれば、いろいろと気色の悪い部分もあるとは思う。
それはそれで、指摘のある都度直し、上演の時点ではまともな関西弁になるよう心がけている。
次回公演『クララ・シューマン 天才のヨメはん』も、基本、関西弁で、関西の観客の笑いを取りに行くつもりだ。
脚本を読んだ演者から、すでに「コッテコテですね」とのお言葉もいただいている。
目指すはクラシック界の吉本新喜劇。
いや、別に松竹新喜劇でもかまわない。
それか、関西の企業が貸し切ったタカラヅカ(普段の舞台とは別物)でもいい。
と、書いていて、関西の笑劇の分厚さに圧倒される。
圧倒されつつも、その一角を占めるべく、来年も蟷螂の斧よろしく、無謀な戦いを挑もう、と。
手にする武器はクラシック音楽。
そんな気持ちで。
誰に向かって言ってるのかわからんが、神様でも仏様でもいいし、皆様でもいい、とにかく来年も、感謝の心で仕事します。
今年は良い仕事をさせていただきました。
来年もまた良い仕事をさせてください。
どうか、よろしくお願いいたします。
夙川座主催公演は『ふたりのヨシコ 李香蘭と男装の麗人』だけだったが、他団体との共催(「侍祭(さむらいまつり)」での『平和の新地』)や企画協力(大阪音楽大学「大人の会」)、また脚本を提供したイベント(舞台演劇『島ひきおに』)が故郷・日田で開かれるなど、仕事の幅は広がったと思う。
もちろん、利益というにはほど遠い仕事内容でしかないし、こちらの思惑が空回りした年でもあった。
そんななか、ひとつ、はっきりしたことがある。
それは、夙川座は日本語の会社だということである。
日本語で作品を提供し、日本語の妙味を味わってもらう。
特に関西では、関西弁での上演にこだわって。
もちろん、ここに、東京への対抗意識とか、そんなのはみじんもない。
そもそも浅川座長(社長)は北海道出身だし、私は九州男児である。
日本の北と南からやってきたよそ者二人が、自由な気風の関西で、それを良いことに好き放題やってるというのが実態である。
そんなよそ者の目から見れば、関西人の歌手が、関西人の観客相手に、慣れない標準語で芝居するのは絶対におかしい。
それは、日本人が、日本人相手に、イタリア語のオペラを演じるのとはわけがちがう。
オペラの場合は、オリジナルが外語なんだから仕方ない。
なのに、これから作るオリジナルで、関西人が演じ、関西で上演するものを、標準語でやる意味があるのか。
日田でやった芝居『しまひき鬼』の脚本も、本来なら日田弁で書くべきだったとは思うけれど、原作の縛りがあるのでしかたなかった。
もちろん、私は九州男児だから、関西弁のネイティブが作品を検討すれば、いろいろと気色の悪い部分もあるとは思う。
それはそれで、指摘のある都度直し、上演の時点ではまともな関西弁になるよう心がけている。
次回公演『クララ・シューマン 天才のヨメはん』も、基本、関西弁で、関西の観客の笑いを取りに行くつもりだ。
脚本を読んだ演者から、すでに「コッテコテですね」とのお言葉もいただいている。
目指すはクラシック界の吉本新喜劇。
いや、別に松竹新喜劇でもかまわない。
それか、関西の企業が貸し切ったタカラヅカ(普段の舞台とは別物)でもいい。
と、書いていて、関西の笑劇の分厚さに圧倒される。
圧倒されつつも、その一角を占めるべく、来年も蟷螂の斧よろしく、無謀な戦いを挑もう、と。
手にする武器はクラシック音楽。
そんな気持ちで。
誰に向かって言ってるのかわからんが、神様でも仏様でもいいし、皆様でもいい、とにかく来年も、感謝の心で仕事します。
今年は良い仕事をさせていただきました。
来年もまた良い仕事をさせてください。
どうか、よろしくお願いいたします。
2019年01月07日
伊佐山紫文263
『羊と鋼の森』平成30年2018年日本
監督:橋本光二郎 脚本:金子ありさ
青年ピアノ調律師の話。
なんてことはない話だけれど、ピアニストを目指すことにした女の子の台詞が突き刺さった。
「ピアノで食べていくんじゃない。ピアノを食べて生きるのよ」
確かに才能なんてのはそんなものかもしれない。
『文学で食べていくんじゃない。文学を食べて生きるんだ』
とか、半分開き直りで。
実際、才能が重荷でしかない人生もあるからね。
……
新しいパソコンで原稿を作ってみた。
ワープロは同じだけど、学習環境が違うから、やりづらい部分もある。
8年も使い続けたパソコンとソフトだもんな。
これからまだまだ引っ越しは続くよ。
監督:橋本光二郎 脚本:金子ありさ
青年ピアノ調律師の話。
なんてことはない話だけれど、ピアニストを目指すことにした女の子の台詞が突き刺さった。
「ピアノで食べていくんじゃない。ピアノを食べて生きるのよ」
確かに才能なんてのはそんなものかもしれない。
『文学で食べていくんじゃない。文学を食べて生きるんだ』
とか、半分開き直りで。
実際、才能が重荷でしかない人生もあるからね。
……
新しいパソコンで原稿を作ってみた。
ワープロは同じだけど、学習環境が違うから、やりづらい部分もある。
8年も使い続けたパソコンとソフトだもんな。
これからまだまだ引っ越しは続くよ。
2019年01月07日
伊佐山紫文262
新しいパソコンから初投稿。
しんとせし心の痛み
(平成二十九年、水害にて鉄橋の流されし花月川の半世紀前の光景)
秋の長雨に
そぞろしも心遠く
眺めやる景色
うたてしや幼き日
浮かびては消え
消えては浮かび
あるかなきかの
しんとせし痛み
あれはいつの幼き日ぞ
川原には風光り
春の陽は水面にさざめき
若き日の母は濁りなき笑顔もて
土手の上に手を振る若き父を
大声に呼ばんとするにはあらずや
父の手には甘き洋菓子ありて
それを我にくれんとて
大声もて腕を振るにはあらずや
澄みわたる青空のもと
そはあまりにもさいわいにすぎ
心に封じぬ
ひとたびそを放たば
そは奔流として我が今を流し去るべし
幼き我はそを心の底に沈め
かつてありし景色とて
時折こころに浮かべ
舐めんがごとく味わいぬ
いつしか父は去り母も逝き
かの景色は永遠の幻となり
我今しんとせし痛みを
心に解き放ちぬ
風光る川原
水面にさざめく春の陽
濁りなき笑顔の母
そして洋菓子もて土手を駆け下る父
しんとせし心の痛みを
しんとせし心の痛み
(平成二十九年、水害にて鉄橋の流されし花月川の半世紀前の光景)
秋の長雨に
そぞろしも心遠く
眺めやる景色
うたてしや幼き日
浮かびては消え
消えては浮かび
あるかなきかの
しんとせし痛み
あれはいつの幼き日ぞ
川原には風光り
春の陽は水面にさざめき
若き日の母は濁りなき笑顔もて
土手の上に手を振る若き父を
大声に呼ばんとするにはあらずや
父の手には甘き洋菓子ありて
それを我にくれんとて
大声もて腕を振るにはあらずや
澄みわたる青空のもと
そはあまりにもさいわいにすぎ
心に封じぬ
ひとたびそを放たば
そは奔流として我が今を流し去るべし
幼き我はそを心の底に沈め
かつてありし景色とて
時折こころに浮かべ
舐めんがごとく味わいぬ
いつしか父は去り母も逝き
かの景色は永遠の幻となり
我今しんとせし痛みを
心に解き放ちぬ
風光る川原
水面にさざめく春の陽
濁りなき笑顔の母
そして洋菓子もて土手を駆け下る父
しんとせし心の痛みを
2019年01月07日
伊佐山紫文261
今私たちが使っている言葉の多くは、明治期に福澤諭吉をはじめとする先人たちが翻訳したものだ。
「政治」「経済」「文化」「文明」等々、上げていけばキリがない。
こういう本格的な訳語作りと平行して、当時、意味と読みの語呂合わせみたいな遊びも多く試みられた。
たとえば「アイス」と読み仮名が振られた漢字、なんでしょう。
ヒントは『金色夜叉』。
と言ってもわかるまい。
「高利貸」
「こおりがし(氷菓子)」と「こうりがし(高利貸)」の表記がまだ曖昧だったんですね。
それでは、
「西洋冬至」は?
なんと、クリスマスなんですよ。
クリスマスにキリストが生まれたなんて、誰も本気にしていない。
ただ、太陽の復活とキリストの復活とを重ねただけだって。
そこをきちんと見抜いて付けた訳なんでしょう。
こういうところ、明治の先人たちは本当に素晴らしいと思う。
その明治という時代を作ったのが日田だと、今は無き月隈小学校の我々は教わってきた。
広瀬淡窓の咸宜園がなければ、明治維新も、近代的な学制もなく、日本は西洋の植民地になっていただろうと。
幼い私は、そんなバカな、と思いつつも、心の奥底では誇りにしていた。
日田を出てからも、いつか日田に帰って日田の文化に貢献するのだという愛郷心と、あんなド田舎で何が出来るんだという現実の自分が常にせめぎ合っていた。
ここで架空の「ケンちゃん」にご登場頂こう。
私が愛郷心に目覚め、日田に帰ろうかと思ったとき、必ず「ケンちゃん」が現れる。
そんな良い場所じゃねえんだよ、と私の幻想を蹴散らかす。
ああ、ケンちゃんがいるようなところには住めないな、と、私は帰郷を諦める。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」
である。
それでも人は懲りないもので、なにか良いことがあると故郷への愛が復活する。
で、またケンちゃんが現れる。
「現実を見ろよ」
と。
「そんな良い場所か?」
明治の先人たち、福澤諭吉だろうが、森有礼だろうが、みんな故郷喪失者だった。
と言うより、幕藩体制の瓦解の中で、全ての故郷が崩壊してしまった。
帰るべき故郷たる、諭吉らの日本語ではこの現実を表現出来なかった。
だから作る。
言葉を作る。
それが新しい故郷となるような、新しい言葉を作るしかなかったのだ。
それが諭吉らの、ケンちゃんとの戦いだった。
私たちは今、諭吉らがケンちゃんとの戦いの中で作った新しい日本語の故郷の中で生きている。
私たちもまた、今、ケンちゃんと戦いながら、新しい言葉を生み出していかなければならないのだろう。
それが次の世代の故郷になるのだと信じて。
「政治」「経済」「文化」「文明」等々、上げていけばキリがない。
こういう本格的な訳語作りと平行して、当時、意味と読みの語呂合わせみたいな遊びも多く試みられた。
たとえば「アイス」と読み仮名が振られた漢字、なんでしょう。
ヒントは『金色夜叉』。
と言ってもわかるまい。
「高利貸」
「こおりがし(氷菓子)」と「こうりがし(高利貸)」の表記がまだ曖昧だったんですね。
それでは、
「西洋冬至」は?
なんと、クリスマスなんですよ。
クリスマスにキリストが生まれたなんて、誰も本気にしていない。
ただ、太陽の復活とキリストの復活とを重ねただけだって。
そこをきちんと見抜いて付けた訳なんでしょう。
こういうところ、明治の先人たちは本当に素晴らしいと思う。
その明治という時代を作ったのが日田だと、今は無き月隈小学校の我々は教わってきた。
広瀬淡窓の咸宜園がなければ、明治維新も、近代的な学制もなく、日本は西洋の植民地になっていただろうと。
幼い私は、そんなバカな、と思いつつも、心の奥底では誇りにしていた。
日田を出てからも、いつか日田に帰って日田の文化に貢献するのだという愛郷心と、あんなド田舎で何が出来るんだという現実の自分が常にせめぎ合っていた。
ここで架空の「ケンちゃん」にご登場頂こう。
私が愛郷心に目覚め、日田に帰ろうかと思ったとき、必ず「ケンちゃん」が現れる。
そんな良い場所じゃねえんだよ、と私の幻想を蹴散らかす。
ああ、ケンちゃんがいるようなところには住めないな、と、私は帰郷を諦める。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」
である。
それでも人は懲りないもので、なにか良いことがあると故郷への愛が復活する。
で、またケンちゃんが現れる。
「現実を見ろよ」
と。
「そんな良い場所か?」
明治の先人たち、福澤諭吉だろうが、森有礼だろうが、みんな故郷喪失者だった。
と言うより、幕藩体制の瓦解の中で、全ての故郷が崩壊してしまった。
帰るべき故郷たる、諭吉らの日本語ではこの現実を表現出来なかった。
だから作る。
言葉を作る。
それが新しい故郷となるような、新しい言葉を作るしかなかったのだ。
それが諭吉らの、ケンちゃんとの戦いだった。
私たちは今、諭吉らがケンちゃんとの戦いの中で作った新しい日本語の故郷の中で生きている。
私たちもまた、今、ケンちゃんと戦いながら、新しい言葉を生み出していかなければならないのだろう。
それが次の世代の故郷になるのだと信じて。
2019年01月07日
伊佐山紫文257
ウチの宿舎で同じエレベータを利用している家族で、夫婦ともに巨漢、その子の兄弟も次第に巨漢化して、ものすごいことになっている。
で、その四人と偶然、エレベーターを乗り合わせた。
四人揃っているのを見るのも初めてなら、同じエレベーターに乗るのも初めてである。
四人が乗り、相当窮屈になったところで、私が乗り込んだ。
ドアが閉まり、運転が始まった途端、
「大変混み合って、ご迷惑をおかけします。しばらくの間、ご辛抱下さい」
と、自動アナウンスが。
「初めて聞いた~」
四人の巨漢が笑う、笑う。
エレベーターの箱が揺れる!
やめてくれ~
ワイヤーが切れたらどうすんだ~
ふう。
生きた心地のしない数秒間であったけれど、最近、フリーでいることの悲哀を感じることが続いており、この笑い声に少しだけ心が温かくなった。
で、その四人と偶然、エレベーターを乗り合わせた。
四人揃っているのを見るのも初めてなら、同じエレベーターに乗るのも初めてである。
四人が乗り、相当窮屈になったところで、私が乗り込んだ。
ドアが閉まり、運転が始まった途端、
「大変混み合って、ご迷惑をおかけします。しばらくの間、ご辛抱下さい」
と、自動アナウンスが。
「初めて聞いた~」
四人の巨漢が笑う、笑う。
エレベーターの箱が揺れる!
やめてくれ~
ワイヤーが切れたらどうすんだ~
ふう。
生きた心地のしない数秒間であったけれど、最近、フリーでいることの悲哀を感じることが続いており、この笑い声に少しだけ心が温かくなった。
2019年01月07日
伊佐山紫文259
かかってきた電話に出た息子が、
「Oさんは今いません」
などと答えている。
「Oさん」とは言うまでもなく、私の妻で、息子の母である。
うちの家は夫婦別姓で、それぞれが別の姓を名乗っているからこうなる。
夫婦別姓など、これはもう、今では普通で、テレビのアナウンサーも、結婚して改姓する方が珍しかったりする。
ところが、30年前はそうではなかった。
結婚して改姓しないと、その理由を根掘り葉掘り聞かれたりした。
で、それはオカシイと、結婚改姓を考える運動を立ち上げた。
それがちょうど30年前である。
全国単位の運動体を組織して、毎月、集会を持ち、機関誌も出した。
マスコミにも出て、何冊もの本を書いた。
もちろん左翼のやることだから、ありもしない将来の社会の姿を巡って四分五裂、結局は法改正にまでは至らなかったが、人々の意識を変えることは出来たと思う。
別姓の夫婦も普通にいる、と。
その結果か、息子は父母の姓が違うことを普通に受け入れている。
もって良しとしよう。
「Oさんは今いません」
などと答えている。
「Oさん」とは言うまでもなく、私の妻で、息子の母である。
うちの家は夫婦別姓で、それぞれが別の姓を名乗っているからこうなる。
夫婦別姓など、これはもう、今では普通で、テレビのアナウンサーも、結婚して改姓する方が珍しかったりする。
ところが、30年前はそうではなかった。
結婚して改姓しないと、その理由を根掘り葉掘り聞かれたりした。
で、それはオカシイと、結婚改姓を考える運動を立ち上げた。
それがちょうど30年前である。
全国単位の運動体を組織して、毎月、集会を持ち、機関誌も出した。
マスコミにも出て、何冊もの本を書いた。
もちろん左翼のやることだから、ありもしない将来の社会の姿を巡って四分五裂、結局は法改正にまでは至らなかったが、人々の意識を変えることは出来たと思う。
別姓の夫婦も普通にいる、と。
その結果か、息子は父母の姓が違うことを普通に受け入れている。
もって良しとしよう。
2019年01月07日
伊佐山紫文258
息子がインフルエンザの予防接種でまた逃げようとした。
で、まあ、みんなで押さえつけて事なきを得たのだが、息子が言うには、
「この前より痛くなかった」
お前ナァ、
「この前とか言うけど、それを比べる痛さの単位ってあるのか?」
「あ!」
「1痛み、2痛み、なんてことがあると思うのか?」
「無いな。だったら、全部、気のせいってこと?」
「それが大きい」
「じゃぁ……」
とかって、また壮大な文明論を展開しようとするから、こちらも負けじとベルクソンの議論を持ちだそうとする。
けれどその前に言うには、
「これは本能なんだよ。痛さより、鋭いものを体の内部に突き刺されるのが怖いっていう」
そりゃそうだ。
けれど、現代では、本能に随うのが常に正しいとは限らないぞ。
たとえば飛行機はどうなんだ。
家から徒歩で駅まで行き、電車に乗って空港で飛行機に乗ったとする。
確率から言えば、最も安全なのは飛行機であり、その次は電車、そして最も危険なのが徒歩である。
けれど、我々の本能は、飛行機を最も怖れる。
これは当然で、我々がヒトになったとき、飛行機はなかったから。
我々がサルと共有する祖先、とにかくそのご先祖様が生きていた頃には、地上何千メートルで、しかも時速何百キロで移動するなんてことはなかった。
それは想像だに絶する、恐怖の事態だったろう。
だから科学の、統計の伝える真実に抵抗し、我々は飛行機を最も怖れる。
素のままの我々は、決して、現代の科学技術に適応した何者かではない。
だから、本能などと言うってことは、自らを、旧石器時代の、その時代の科学技術に応じた本能を持つ、ヒトモドキかサルモドキにすぎないことを認めるってことだ。
科学技術の進歩の速度は、種としてのヒトの進化の速度を遙かに凌駕しており、それを本能の一言で否定するなんてバカげている。
我々は現代を生きる人類なんだ!
「お腹すいたよ」
こ、これは本能で、これは生き物として仕方ない。
まあとにかく、何か食って帰ろう。
冷えてきたし、おでんにしようか。
で、まあ、みんなで押さえつけて事なきを得たのだが、息子が言うには、
「この前より痛くなかった」
お前ナァ、
「この前とか言うけど、それを比べる痛さの単位ってあるのか?」
「あ!」
「1痛み、2痛み、なんてことがあると思うのか?」
「無いな。だったら、全部、気のせいってこと?」
「それが大きい」
「じゃぁ……」
とかって、また壮大な文明論を展開しようとするから、こちらも負けじとベルクソンの議論を持ちだそうとする。
けれどその前に言うには、
「これは本能なんだよ。痛さより、鋭いものを体の内部に突き刺されるのが怖いっていう」
そりゃそうだ。
けれど、現代では、本能に随うのが常に正しいとは限らないぞ。
たとえば飛行機はどうなんだ。
家から徒歩で駅まで行き、電車に乗って空港で飛行機に乗ったとする。
確率から言えば、最も安全なのは飛行機であり、その次は電車、そして最も危険なのが徒歩である。
けれど、我々の本能は、飛行機を最も怖れる。
これは当然で、我々がヒトになったとき、飛行機はなかったから。
我々がサルと共有する祖先、とにかくそのご先祖様が生きていた頃には、地上何千メートルで、しかも時速何百キロで移動するなんてことはなかった。
それは想像だに絶する、恐怖の事態だったろう。
だから科学の、統計の伝える真実に抵抗し、我々は飛行機を最も怖れる。
素のままの我々は、決して、現代の科学技術に適応した何者かではない。
だから、本能などと言うってことは、自らを、旧石器時代の、その時代の科学技術に応じた本能を持つ、ヒトモドキかサルモドキにすぎないことを認めるってことだ。
科学技術の進歩の速度は、種としてのヒトの進化の速度を遙かに凌駕しており、それを本能の一言で否定するなんてバカげている。
我々は現代を生きる人類なんだ!
「お腹すいたよ」
こ、これは本能で、これは生き物として仕方ない。
まあとにかく、何か食って帰ろう。
冷えてきたし、おでんにしようか。
2019年01月07日
伊佐山紫文257
息子が朝食後にバヤリースオレンジを飲んでいて、咽せて戻した。
その人工的な臭いの残るコタツでこれを書いている。
「これって、果汁10%だよね。味がオカシイ」
などと、自分が買ってきてくれと言っておきながら、言い訳がましく。
ウチではこんなものみずから買うわけもなく、それこそ学校の春の社会見学で行った工場で初めて飲んで感激し、また飲みたいとなったわけで、それがまた飲んでみて「オカシイ」ことに気づいたんだから、まあ、良しとしよう。
うちじゃ、最低でも濃縮還元の100%ジュースだし、ことオレンジに関しては絶対にストレートで譲らない。
だからバヤリースの軽さに感動したのかも知れないが、とにかく焼酎を割るにはストレートなのだよ。
それで、息子が言うには、
「なんで、水と空気と、通る場所が違うんだろ。空気を通る場所にジュースが入ったから吐いたんだろ。なんでだろ」
うん。
良いところに気がついた。
確かに、誤嚥性肺炎と言って、気管に食べ物が入ることで肺炎を起こして死ぬ年寄りは後を絶たない。
これからの季節、餅を喉に詰まらせて死ぬ年寄りも相当数、出るだろう。
もし人間が、他の生き物と同様、鼻からしか息をしなかったら。
消化管で呼吸をしていなかったら、こんな事故は起こりえなかったはずだ。
これは進化的に見ても、かなりオカシイ事態である。
なぜなのか。
こんな危険を冒してまで、口で呼吸をする意味があるのか。
あるのだ。
それは、人間が人間になるために、必要不可欠なことだった。
人間と他の動物とを分かつもの。
それは言葉である。
人間が言葉を発するためには、呼吸による呼気が必要だった。
本来、食物消化の道具である口腔や咽頭を使って呼気を調節し、分節言語を発すること。
そのためには口で呼吸することが出来なければならない。
他の哺乳類は全て、人類と最も近縁なチンパンジーやゴリラでさえ、口で呼吸はしていない。
叫び声に聞こえるものも、すべて、呼吸ではなく、一時的に口腔に入れた空気で発しているだけだ。
呼気を利用して、叫び声ではなく、分節化された言語を操るのは人類だけである。
このような、呼気を利用して言語を操ることが出来る者たちが選択されて生き残って来たのである。
それでは、言語が進化上、有利になるのは、いったいどんな場面だろう。
ここで、進化学説上のコペルニクス的転回が起きるのだが、その証明の数学的基礎はここでは書ききれないし、必要もない。
みんな、経験上、わかる。
これまで学問上、無視してきただけのことだから。
言語が出来るものが有利になる状況、それは「つげぐち」である。
あの子が、実際は誰の子であるか、その情報を共有するために「つげぐち」をする。
情報を共有し、つまりは秘密による共同体を作り、団結力を高める。
以前はこれを「マキャベリ的知性仮説」と呼んでいたが、あまりにマキャベリの権謀術数的なイメージが強すぎるし、本当はとても良い人だったマキャベリに悪いと言うことで、今では「社会脳仮説」と言うらしい。
で、ここからがコペルニクス的転回なのだが、この社会脳的知性を担い培い育てたのは誰なのか。
端的に言えば、オスなのか、メスなのか。
自然、文化双方の人類学的な研究から、おそらく、この知性を担い培い育てたのはメスだろうという結論が出ている。
それまでの進化学は、オスの行動の研究が中心で、オスがどのようにふるまい、オス同士でどのように争い、どのようにメスを選ぶかが研究されてきた。
オスの行動が進化を促してきた、と、暗黙の内に前提されていたのである。
ところが、こと人類の、人類が人類となる決定的な場面においては、メスのふるまいが鍵となっていたのである。
これは経験的にも理解できる。
女の子の方が言葉を早く覚え、ままごとのような社会的な遊びをし、恋愛についての情報交換「恋バナ」を活発にし、大人びている。
人間が人間らしいと言ったとき、そのほとんどの特徴は女性のものである。
逆に、ケモノのようなと言ったとき、そのふるまいはたいていは男性のものである。
人間が人間になるためには、まずは口呼吸が必要で、そしてその口呼吸を利用して「つげぐち」や「恋バナ」に花を咲かせるメスたちが不可欠だった。
「女子は成熟が早くてコミュニケーション能力が高いので……」
などと言った医学部の先生の言い訳は、直感的に最近の進化学説の本質に触れている。
だからこそ許されんのだよ。
そもそも人類創生期の医療はメスが担ったと言われている。
そのような創生期の医療などを「魔術」として排除したのが近代科学だった。
ニュートンは魔女の存在を信じていたし、その手の著作もモノしている。
医学部の先生も科学者なら、進化学説上のコペルニクス的転回くらい知っておいたほうが良いと思うよ。
あ、もう学校?
行ってらっしゃい。
その人工的な臭いの残るコタツでこれを書いている。
「これって、果汁10%だよね。味がオカシイ」
などと、自分が買ってきてくれと言っておきながら、言い訳がましく。
ウチではこんなものみずから買うわけもなく、それこそ学校の春の社会見学で行った工場で初めて飲んで感激し、また飲みたいとなったわけで、それがまた飲んでみて「オカシイ」ことに気づいたんだから、まあ、良しとしよう。
うちじゃ、最低でも濃縮還元の100%ジュースだし、ことオレンジに関しては絶対にストレートで譲らない。
だからバヤリースの軽さに感動したのかも知れないが、とにかく焼酎を割るにはストレートなのだよ。
それで、息子が言うには、
「なんで、水と空気と、通る場所が違うんだろ。空気を通る場所にジュースが入ったから吐いたんだろ。なんでだろ」
うん。
良いところに気がついた。
確かに、誤嚥性肺炎と言って、気管に食べ物が入ることで肺炎を起こして死ぬ年寄りは後を絶たない。
これからの季節、餅を喉に詰まらせて死ぬ年寄りも相当数、出るだろう。
もし人間が、他の生き物と同様、鼻からしか息をしなかったら。
消化管で呼吸をしていなかったら、こんな事故は起こりえなかったはずだ。
これは進化的に見ても、かなりオカシイ事態である。
なぜなのか。
こんな危険を冒してまで、口で呼吸をする意味があるのか。
あるのだ。
それは、人間が人間になるために、必要不可欠なことだった。
人間と他の動物とを分かつもの。
それは言葉である。
人間が言葉を発するためには、呼吸による呼気が必要だった。
本来、食物消化の道具である口腔や咽頭を使って呼気を調節し、分節言語を発すること。
そのためには口で呼吸することが出来なければならない。
他の哺乳類は全て、人類と最も近縁なチンパンジーやゴリラでさえ、口で呼吸はしていない。
叫び声に聞こえるものも、すべて、呼吸ではなく、一時的に口腔に入れた空気で発しているだけだ。
呼気を利用して、叫び声ではなく、分節化された言語を操るのは人類だけである。
このような、呼気を利用して言語を操ることが出来る者たちが選択されて生き残って来たのである。
それでは、言語が進化上、有利になるのは、いったいどんな場面だろう。
ここで、進化学説上のコペルニクス的転回が起きるのだが、その証明の数学的基礎はここでは書ききれないし、必要もない。
みんな、経験上、わかる。
これまで学問上、無視してきただけのことだから。
言語が出来るものが有利になる状況、それは「つげぐち」である。
あの子が、実際は誰の子であるか、その情報を共有するために「つげぐち」をする。
情報を共有し、つまりは秘密による共同体を作り、団結力を高める。
以前はこれを「マキャベリ的知性仮説」と呼んでいたが、あまりにマキャベリの権謀術数的なイメージが強すぎるし、本当はとても良い人だったマキャベリに悪いと言うことで、今では「社会脳仮説」と言うらしい。
で、ここからがコペルニクス的転回なのだが、この社会脳的知性を担い培い育てたのは誰なのか。
端的に言えば、オスなのか、メスなのか。
自然、文化双方の人類学的な研究から、おそらく、この知性を担い培い育てたのはメスだろうという結論が出ている。
それまでの進化学は、オスの行動の研究が中心で、オスがどのようにふるまい、オス同士でどのように争い、どのようにメスを選ぶかが研究されてきた。
オスの行動が進化を促してきた、と、暗黙の内に前提されていたのである。
ところが、こと人類の、人類が人類となる決定的な場面においては、メスのふるまいが鍵となっていたのである。
これは経験的にも理解できる。
女の子の方が言葉を早く覚え、ままごとのような社会的な遊びをし、恋愛についての情報交換「恋バナ」を活発にし、大人びている。
人間が人間らしいと言ったとき、そのほとんどの特徴は女性のものである。
逆に、ケモノのようなと言ったとき、そのふるまいはたいていは男性のものである。
人間が人間になるためには、まずは口呼吸が必要で、そしてその口呼吸を利用して「つげぐち」や「恋バナ」に花を咲かせるメスたちが不可欠だった。
「女子は成熟が早くてコミュニケーション能力が高いので……」
などと言った医学部の先生の言い訳は、直感的に最近の進化学説の本質に触れている。
だからこそ許されんのだよ。
そもそも人類創生期の医療はメスが担ったと言われている。
そのような創生期の医療などを「魔術」として排除したのが近代科学だった。
ニュートンは魔女の存在を信じていたし、その手の著作もモノしている。
医学部の先生も科学者なら、進化学説上のコペルニクス的転回くらい知っておいたほうが良いと思うよ。
あ、もう学校?
行ってらっしゃい。
2019年01月07日
伊佐山紫文256
浅川座長(社長)から突然の業務命令で作った歌詞。
ポップスのコンテンツも増やしていこうってことで。
ジャンル化するとすれば、クラシック演歌ってところかな。
欧米じゃ、この種の替え歌も珍しくない。
エルヴィスもそうだしね。
夢(オーラ・リー)
いざない行くは 夢の中
幼き頃の 想い出に
強き父に 守られて
甘き夢みし あどけ無き日
いつか無くした その夢に
今も憶える あの思い
優し母と 見つめあい
甘き夢みし あどけ無き日
今も我が子と 語り合う
夢みし夢を 時忘れ
親となりし この時も
甘き夢みる 同じ夢を
ポップスのコンテンツも増やしていこうってことで。
ジャンル化するとすれば、クラシック演歌ってところかな。
欧米じゃ、この種の替え歌も珍しくない。
エルヴィスもそうだしね。
夢(オーラ・リー)
いざない行くは 夢の中
幼き頃の 想い出に
強き父に 守られて
甘き夢みし あどけ無き日
いつか無くした その夢に
今も憶える あの思い
優し母と 見つめあい
甘き夢みし あどけ無き日
今も我が子と 語り合う
夢みし夢を 時忘れ
親となりし この時も
甘き夢みる 同じ夢を
2019年01月07日
伊佐山紫文255
息子が、風呂で、
「光速ってなに?」
と聞いてきた。
もちろん、光の速度のことじゃないことはわかっている。
だから、
「これ以上早く進むものはこの世にないって速さ、だよ」
「本当にないの?」
「ない」
たとえば、時速50キロで進む電車の中で、前に向かってボールを投げたとする。
そのボールが時速20キロだとすると、電車の外で観察する人には、ボールの速度は時速70キロになる。
だとすると、その同じ電車の中で、前に向かってライトを照らしたら、その光は光速+時速50キロということになるのか。
そうはならない。
時速50キロ分だけ、空間が縮むのである。
それはもう、人間の技術では観測できないくらい小さい縮み方だから誰にも分からないけれど。
この光速は、光の速さってことじゃなく、電磁波の速度ってことで、有名なアインシュタインの式でエネルギーと質量を結びつけている。
たとえば原爆。
光速なんて莫大な数が絡んでるから、ほんの少量のウランが猛烈な破壊力で広島の街を壊滅させることが出来た。
実は去年、今年の夙川座公演について考えていたとき、頭に浮かんだテーマが二つあった。
一つは80年前の阪神大水害で、これは谷崎潤一郎の『細雪』にも描かれている。
これと営林をからめて描こうかなと思った。
もう一つは杉原千畝のユダヤ人救済で、実際、日本でユダヤ人を庇い、アメリカに送り出したのは戦前の日本に唯一、神戸にだけ有ったユダヤ人コミュニティであり、それを支えた神戸っ子たちだから、物語はなんぼでも有るはずだ。
と思って調べ始めたのだが、これが、見事に痕跡もない。
神戸市もおそらくは同様の動機から、数年前に市民の体験などを募ったのだが、その後、何の音沙汰もない。
で、ここからは、様々な消息からつくりあげた私の物語である。
全くのフィクションだと思って下さい。
戦前のドイツ、ナチス政権下のドイツでは、アインシュタインの相対性理論はユダヤ的な無神論とされて迫害され、アインシュタインはもちろん、多くのユダヤ系物理学者が亡命を余儀なくされていた。
もちろん、みんなが亡命できたわけではない。
ドイツやドイツ占領下のポーランドにも息を潜めて生きていた物理学者も多くいた。
そして当時、日本では、ウランを濃縮して原爆が作れないかという研究が進められていた。
ウランを産出するのは満州である。
で、その満州ではヨーロッパで迫害されているユダヤ人を受け入れる計画もあった。
ここに、杉原千畝が絡む。
多くのユダヤ人難民に紛れ込ませて、ユダヤ系物理学者を満州経由で日本に送り込むのである。
そして神戸、多くのユダヤ人がアメリカ行きを待っていた。
日米の関係は急速に悪化し、アメリカ行きは焦眉の急となる。
そんなある日、ユダヤ人を匿う神戸のある一家に、一人の男が尋ねてくる。
「ここ、ユダヤ人物理学者がおるやろ?」
と。
何も隠すことはない。
「おるで」
と答えると、すぐに身柄を引き渡せと言う。
原爆の研究に動員するのだと。
「それは出来ひん。彼は平和主義者なんやで、帰ってや」
主人の強力な抵抗にあって、男は帰る。
その間に、主人はユダヤ人物理学者を横浜に送り、無事、アメリカに亡命させることが出来た。
ところが当時、アメリカでは亡命ユダヤ人の困窮が問題になっていた。
アメリカも不況であり、街には失業者が溢れている。
ここで、アインシュタインらが、半分冗談で窮余の一策を思いつく。
当時としては不可能と思われていた、出来るはずもない原爆を飯の種にしようと言うのである。
アインシュタインの弟子が筆を執り、アインシュタイン自らが署名した、原爆開発への大統領への手紙である。
で、始まったのがマンハッタン計画。
これで困窮していたユダヤ人物理学者たちは食いつなぐことが出来た。
どころか、本当に、予期せぬ短期間で原爆を作れてしまった。
でも、とっくにドイツは降伏している。
ナチス憎しで、それも半分冗談で作り始めた原爆である。
それを、まさか日本に使うとは……
神戸でもまさか、である。
自分たちが送り出したユダヤ人物理学者たちが原爆を作り、日本に落とすとは……
こうして神戸の人々はユダヤ人との関わりについて口をつぐむようになった、と。
杉原千畝も同様、すっかり忘れ去られた、と。
上演は不可能ですね。
はい。
「光速ってなに?」
と聞いてきた。
もちろん、光の速度のことじゃないことはわかっている。
だから、
「これ以上早く進むものはこの世にないって速さ、だよ」
「本当にないの?」
「ない」
たとえば、時速50キロで進む電車の中で、前に向かってボールを投げたとする。
そのボールが時速20キロだとすると、電車の外で観察する人には、ボールの速度は時速70キロになる。
だとすると、その同じ電車の中で、前に向かってライトを照らしたら、その光は光速+時速50キロということになるのか。
そうはならない。
時速50キロ分だけ、空間が縮むのである。
それはもう、人間の技術では観測できないくらい小さい縮み方だから誰にも分からないけれど。
この光速は、光の速さってことじゃなく、電磁波の速度ってことで、有名なアインシュタインの式でエネルギーと質量を結びつけている。
たとえば原爆。
光速なんて莫大な数が絡んでるから、ほんの少量のウランが猛烈な破壊力で広島の街を壊滅させることが出来た。
実は去年、今年の夙川座公演について考えていたとき、頭に浮かんだテーマが二つあった。
一つは80年前の阪神大水害で、これは谷崎潤一郎の『細雪』にも描かれている。
これと営林をからめて描こうかなと思った。
もう一つは杉原千畝のユダヤ人救済で、実際、日本でユダヤ人を庇い、アメリカに送り出したのは戦前の日本に唯一、神戸にだけ有ったユダヤ人コミュニティであり、それを支えた神戸っ子たちだから、物語はなんぼでも有るはずだ。
と思って調べ始めたのだが、これが、見事に痕跡もない。
神戸市もおそらくは同様の動機から、数年前に市民の体験などを募ったのだが、その後、何の音沙汰もない。
で、ここからは、様々な消息からつくりあげた私の物語である。
全くのフィクションだと思って下さい。
戦前のドイツ、ナチス政権下のドイツでは、アインシュタインの相対性理論はユダヤ的な無神論とされて迫害され、アインシュタインはもちろん、多くのユダヤ系物理学者が亡命を余儀なくされていた。
もちろん、みんなが亡命できたわけではない。
ドイツやドイツ占領下のポーランドにも息を潜めて生きていた物理学者も多くいた。
そして当時、日本では、ウランを濃縮して原爆が作れないかという研究が進められていた。
ウランを産出するのは満州である。
で、その満州ではヨーロッパで迫害されているユダヤ人を受け入れる計画もあった。
ここに、杉原千畝が絡む。
多くのユダヤ人難民に紛れ込ませて、ユダヤ系物理学者を満州経由で日本に送り込むのである。
そして神戸、多くのユダヤ人がアメリカ行きを待っていた。
日米の関係は急速に悪化し、アメリカ行きは焦眉の急となる。
そんなある日、ユダヤ人を匿う神戸のある一家に、一人の男が尋ねてくる。
「ここ、ユダヤ人物理学者がおるやろ?」
と。
何も隠すことはない。
「おるで」
と答えると、すぐに身柄を引き渡せと言う。
原爆の研究に動員するのだと。
「それは出来ひん。彼は平和主義者なんやで、帰ってや」
主人の強力な抵抗にあって、男は帰る。
その間に、主人はユダヤ人物理学者を横浜に送り、無事、アメリカに亡命させることが出来た。
ところが当時、アメリカでは亡命ユダヤ人の困窮が問題になっていた。
アメリカも不況であり、街には失業者が溢れている。
ここで、アインシュタインらが、半分冗談で窮余の一策を思いつく。
当時としては不可能と思われていた、出来るはずもない原爆を飯の種にしようと言うのである。
アインシュタインの弟子が筆を執り、アインシュタイン自らが署名した、原爆開発への大統領への手紙である。
で、始まったのがマンハッタン計画。
これで困窮していたユダヤ人物理学者たちは食いつなぐことが出来た。
どころか、本当に、予期せぬ短期間で原爆を作れてしまった。
でも、とっくにドイツは降伏している。
ナチス憎しで、それも半分冗談で作り始めた原爆である。
それを、まさか日本に使うとは……
神戸でもまさか、である。
自分たちが送り出したユダヤ人物理学者たちが原爆を作り、日本に落とすとは……
こうして神戸の人々はユダヤ人との関わりについて口をつぐむようになった、と。
杉原千畝も同様、すっかり忘れ去られた、と。
上演は不可能ですね。
はい。
2019年01月07日
伊佐山紫文254
『羊と鋼の森』平成30年2018年日本
監督:橋本光二郎 脚本:金子ありさ
青年ピアノ調律師の話。
なんてことはない話だけれど、ピアニストを目指すことにした女の子の台詞が突き刺さった。
「ピアノで食べていくんじゃない。ピアノを食べて生きるのよ」
確かに才能なんてのはそんなものかもしれない。
『文学で食べていくんじゃない。文学を食べて生きるんだ』
とか、半分開き直りで。
実際、才能が重荷でしかない人生もあるからね。
……
新しいパソコンで原稿を作ってみた。
ワープロは同じだけど、学習環境が違うから、やりづらい部分もある。
8年も使い続けたパソコンとソフトだもんな。
これからまだまだ引っ越しは続くよ。
監督:橋本光二郎 脚本:金子ありさ
青年ピアノ調律師の話。
なんてことはない話だけれど、ピアニストを目指すことにした女の子の台詞が突き刺さった。
「ピアノで食べていくんじゃない。ピアノを食べて生きるのよ」
確かに才能なんてのはそんなものかもしれない。
『文学で食べていくんじゃない。文学を食べて生きるんだ』
とか、半分開き直りで。
実際、才能が重荷でしかない人生もあるからね。
……
新しいパソコンで原稿を作ってみた。
ワープロは同じだけど、学習環境が違うから、やりづらい部分もある。
8年も使い続けたパソコンとソフトだもんな。
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