「夙川座」やってます!

オリジナル脚本のオペレッタや、朗読とのコラボ、ポピュラーヴォーカルとのコラボなど、様々な場所、お客様に合わせたコンサート、舞台を企画しています!! 夙川、苦楽園がベースです。 どうぞよろしくおねがいいたします。
2018年11月12日

伊佐山紫文222

 フルトヴェングラーのモーツァルトボックスをなにげに聞き流していたら、ドイツ語の『フィガロの結婚』がどうしても耳についてしまった。
「Die Hochzeit Des Figaro」
 がドイツ語でのタイトルで、イタリア語(Le nozze di Figaro)の複数形は飛んでしまってる。
 そもそも、なんで「結婚」(Le nozze)が複数形なのか、浅川座長(社長)が音大の学生だった頃、イタリア語の先生に訊ねて貰ったことがある。
 答えは、
「なんでそんなこと気にするのか、ワケがわからん」
 と言うことで、辞書の自動翻訳のコピーを渡されただけだった。
 まあ、イタリア語の基となったラテン語の活用からそうなった、それだけで、その内容を深読みすれば「結婚」というのは複数の儀式の連なりから成る、だから複数形、と言うことなのだろう。
 確かに日本でも、結婚は、おつきあいに始まり、プロポーズ、結納、結婚式、披露宴、入籍等々、一連の儀式の連なりだもんね。
 単数複数の区別があれば、確かに複数かも。
 複数であるからこそ、「フィガロ」の物語はそれぞれの段階があって楽しいのかも知れないね。
 もし、これが単数であって見、生涯でただ一度の大事件(Hochzeit最高の時)やって見、どれほど息苦しいか。
 フルトヴェングラーの「フィガロ」も晩年の名演であることはまちがいないのだが、なんとも言えず、息苦しい。
 軽やかさが決定的に欠けている。
 まるで『ドン・ジョバンニ』のような「フィガロ」。
 それが言語によるものなのか、指揮者の性格か。
 オトマール・スウィトナーのドイツ語版ではこんな感じはしなかったと思うが。
 まあ、よくわからんが、ドイツ語の重厚なフィナーレにはものすごく感動した。
 
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2018年11月09日

伊佐山紫文221

 今日、買い物に行こうとエレベーターに乗り、さっき扉のところに留まっていたのはカゲロウじゃなかったかと思い直し、一階についてもういちど九階まで戻って確かめた。
 詳しい種類は分からないけれど、おそらくチラカゲロウの一種である。
 周囲を確かめると、脱皮したカラが残っている。
 亜成虫のままここまで飛んできて、いや、飛ばされてきて、仕方なくエレベーターのところで脱皮したのだろう。
 おいおい、英語でメイ・フライ(五月の虫)って言うくらい、夏の虫だよ。
 たいてい世界各地でも儚いものの象徴とされ、確かに成虫になってからは水も食料も取ることなく生殖だけして一日で死んでいく。
 不完全変態だから蛹を作ることはない。
 ただし、幼虫から亜成虫を経て、成虫に至るという変わった変態の仕方をする。
 日本には日記文学の傑作『蜻蛉日記』があるけれど、これは本文を読む限り、カゲロウではなく、クモの子だろうと思われる。
 クモの子が自らの糸に載って飛んで行くのが陽の光を浴びて、一瞬、キラリと儚く輝く、その様子のことではないかと、本文を読んだときには思った。
 種類は違うが、北杜夫が「薄馬鹿下郎」と呼んだウスバカゲロウというのもいる。
 この仲間の幼虫はアリジゴクとして知られている。
 また、大分の中津で長くものを書いていらっしゃった故松下竜一さんには、初期のエッセイというか何というか、これも日記文学になるのか『ウドンゲの花』という作品がある。
 この「ウドンゲの花」はクサカゲロウの卵である。
 若い頃は、松下さんの著作は出るもの全て読んでいたのだが、西宮に越してきて、とある作業所と親しくなり(ここでピンと来る人はピンと来る)、非常に幻滅して読むのを止めたことがある。
 その前から、松下さんの取材対象になった人と話す機会が何度かあり、その取材の手法にはかなり疑問を感じていたのではあったけれど。
 思えばその一人故伊藤ルイさんのご両親大杉栄と伊藤野枝を殺したのは甘粕正彦と言われており、その甘粕正彦が理事長を勤めた満州映画社の物語『ふたりのヨシコ 李香蘭と男装の麗人』をこの私が作ることになったのだから、まあ、縁と言えば縁である。
 カゲロウの幼虫は全て水の中で暮らしており、水質の汚染には敏感なので、淡水の汚染の指標となっている。
 私は日田高時代、このカゲロウの研究に没頭していた。
 花月川、三隈川、その支流に至るまで、どこの瀬にどんな種類のカゲロウがいるか、日田市内の分布を一夏をかけて調べ上げた。
 これは県で賞を取ったし、博物館の紀要にも載ったから、その論文は日田市内を探せばどこかにはあると思う。
 現在の分布を誰か調べれば、比較が出来て楽しいと思うよ。
 私が調べた頃はまだ下水道がなくて、酷い状態のところが多かったから。
 で、買い物から帰って来たら、そのカゲロウ君がまさに私の家の扉に貼り付いている。
 ダメだよ。
 ちゃんと相手を探しに行かなきゃ。
 息を吹きかけると、どこかへ飛んでいった。
 見つかると良いね、お相手……無理か、こんな季節になってしまっちゃ。
 よく「棲み分け」という言葉を政治学や社会学でも使うことがあるけれど、これは元々はカゲロウの分布のこと。
 京都大学の伝説的な生物学者である可児藤吉や今西錦司が京都市内のカゲロウの幼虫の分布を調べ、その様子を「棲み分け」と呼んだのが始まり。
 その後、今西錦司は「棲み分け」理論に基づく壮大な今西進化論を提唱するのだが、まあ、今となっては白昼夢みたいなものだ。
 カゲロウにキブネンシスとか、京都の地名のついたものがあるのは夢の名残か。
(昆虫は見たくない人もいるから、本文には貼ってません。写真集の中に入ってます)

 高校の頃、国語の授業でほとんど即興で書いた詩

 蜉蝣
 それは石の上にいる
 何も言わず
 自分の内部の変化に息を殺して

 可憐な体は軽くなり
 大空を求め
 透明な羽は伸びきった。

 泡沫の中で過ごした一年
 未来を信じ朝を恋して
 五月の風に誘われ飛翔する

 Danの抜け殻は少年期の墓標となり
若きSpinnerは旅立つ
 二四時間の命のために

 Dan:カゲロウの亜成虫
Spinner:カゲロウの成虫
 
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2018年11月09日

伊佐山紫文220

 ネットで新聞記事を流し読みしていて「身土不二」が「地産地消」とほとんど同義で使われているのに驚いた。
「身土不二」と「地産地消」はもともと真逆の意味で、もう40年近く前になるが、熱烈な「身土不二」派の農民が「地産地消」派の活動を口を極めて罵っているのを聞いたことがある。
「身土不二」の由来や「地産地消」との差異など、ウィキペディアにも載っている程度のことなのに、ちょっとでも調べようとは思わなかったのだろうか。
 私なりにまとめれば、「身土不二」は仏教では「しんどふに」と読み、農業運動の中で「しんどふじ」と読まれるようになった。
 もともと仏教用語であるから、ここには「土」という「空間」はもとより、循環する「時間」(輪廻)の概念がたたみ込まれている。
 アナタの体を作っているのは現在の食物であるより、営々と連綿と続いて来たこの土地の、過去の歴史的な食物なのだ。
 だから、伝統的な食生活を変えてはならない。
 これが食生活の西欧化に抗する農業運動の「身土不二」なのである。
 一方の「地産地消」は、たとえばトマトを食べるとして、遠くの産地のものを買うのではなく、自分たちで作ってしまおうという農協の運動だった。
「地産地消」の旗印の下、多くの生活指導員たちが農村に入り、作物の多様化を押し進めた。
 伝統的な「身土不二」を破壊する運動として「地産地消」は始められたのである。
 もちろん、「地産地消」派が「身土不二」派を圧倒して殲滅したのは言うまでもない。
 ところが、奇妙なことが起こる。
 日本の「身土不二」派の書物に感動した韓国の農協幹部が、「身土不二」の名の下に「地産地消」運動を始めてしまう。
 ここが面白いところなのだが、日本の精神のバックボーンには大乗仏教があるように、韓国人の精神的な支柱としては朱子学的な儒教がある。
 朱子学は大乗仏教に対抗し、仏教的な輪廻、つまり循環する時間をタワゴトとして否定した思想である。
 過去からの因果は断ち切られるべきものであり、否定されるべき悪習であることは、政権が変わるたびのドタバタ劇でお馴染みだろう。
「身土不二」も同様に、その歴史性は綺麗に抜き取られ、空間だけがクローズアップされることになった。
 であれば「身土不二」と「地産地消」は全く同義になってしまうし、「身土不二」の名の下に「地産地消」運動が行われても、何の矛盾もない。
 日本では「身土不二」派はほとんど絶滅してしまい、この語を見ることもほとんどなくなってしまったが、韓国旅行で何か農産物を買えば必ずこの仏教用語の印刷された袋に入れてくれる。
 どんな意味かと聞けば「地産地消」という答えが返ってくる。
 なるほど、と。
 こうして里帰りした韓国的な「身土不二」が「地産地消」の意味で使われるのも、まあ、仕方ない。
 ちなみに、「身土不二」派の話を聞いた学生の頃、私淑していた教授が実に興味深い研究を教えてくれた。
 どの学会で誰が発表した研究だったのかは忘れたが、「身土不二」派に傾きかけていた私には衝撃だったし、科学を志していた私にはストンと腑に落ちた。
 それはこういうデータで、医療福祉の差を補正しても、もっとも「身土不二」を実践しているインドの農民の平均寿命は世界一短く、最も「身土不二」から遠い生活をしているニューヨーカーの平均寿命は世界一長い。
 そもそも食物は必ずしも体に良いモノばかりではない。
 植物だって自己防衛のために毒をもっている。
 でなければ虫に食われまくって子孫を残すことなど出来ないだろう。
 もちろん人間にとっては無視できるような微量な毒だろうが、長年そればっかり食べていれば影響が出ないわけがない。
 一方の大都市の住人は世界中で生産された食物を少しずつ、多様に食べているから、そもそもの植物の毒の影響は受けにくい。
 というのが、論文の結論で、疫学的に言えば腑に落ちる話だ。
 長生きしたければ色んなものを少しずつ食べろということなのだろう。
 多様なものを消化するためには多様な酵素を作らなければならないから、身体能力の活性化にもつながるだろうし。
 どうする?
 と、「自然農法」だの何だのといった、妖しい、非科学的・非合理的な方向に傾きかけていた私に教授は問いかけるのだった。
 もちろん、科学や合理主義の行き詰まりを感じてエコロジー運動に飛び込んでいった私に、そんなデータなど屁でもない。
 それからも出来るだけ「身土不二」や「地産地消」を心がけて数十年が経った。
 まあ、これまでのところ大病もしてないし、日本でものを食ってれば、あんがい大丈夫なんじゃないか。
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2018年11月07日

伊佐山紫文219

 次回公演予定の『クララ・シューマン 天才のヨメはん』(仮)のテーマは「愛」である。
「愛」と言っても、根底にあるのはキリスト教的な「愛」と仏教的な「愛」の対立である。
 仏教で言う「愛」は捨て去るべき、乗り越えるべき煩悩の一つに過ぎない。
 仏教では「愛」から様々な苦悩が生じる。
 夫が相手してくれないと悩んだり、我が子のボンクラぶりを嘆いたり、ものを捨てられずゴミ屋敷になったり、全ては「愛」、「愛欲」「愛着」「愛執」に原因がある。
 だから苦悩を立ち切り、ニルヴァーナ(涅槃)の平安に至るためには、まずは「愛」を捨てなければならないのだ。
 たとえば佐藤義清という武将が西行になるためには、まさに我が子を庭に蹴り落とさねばならなかったように。
 キリスト教の「愛」は、これとはまるでちがう。
 と言うか、今の私たちが感じている「愛」こそが、まさにキリスト教的な「愛」である。
『クララ・シューマン 天才のヨメはん』では、クララがまさにキリスト教的な「愛」を体現するのに対し、謎のロマ(いわゆるジプシー)女は仏教的な「愛」を対置し、煩悩としての「愛」の愚かさを説く。
 クララはもちろん、仏教的な「愛」を否定してキリスト教的な「愛」を生き、そして死ぬのだが、そこに至る聖なる愚かさと強さを表現出来ればと思っている。
 実は個人的にも、最近、「愛」の愚かさを思い知った。
 断ち切れと理性は言っても、どうしても断ち切れぬ「愛」がある。
 それを愚かと責めるのはたやすいが、人間とはそもそも哺乳類であり、触れあうことで分泌される愛のホルモン(オキシトシン)によって幸せになるケダモノなのだ。
 たとえブン殴られても、そのあとの「ヨシヨシ」でオキシトシン全開、反動で幸せ一杯になったりする、「愛」に生きるただのケダモノである。
 ハタから見ればただのアホだが、人間がケダモノ(哺乳類)である以上、どうしようもない面がそこにはある。
 ケダモノであること(煩悩)を否定して得られる涅槃と、ケダモノのまま愚かに愛し合い、この世界で滅んで行くこと。
 仏教から見れば、無償の愛ほどろくなモンはない。
 けれどキリスト教から見れば、仏教はあまりに冷たい。
 もちろん、仏教もその後の大乗の展開もあり、キリスト教にかなり近いものになって、新井白石などは、キリスト教を大乗仏教の一派だとみなしたほどだ。
 実は大乗仏教の生成そのものにキリスト教の影響があると言われているから、白石の慧眼はあながち外れてはいない。。
 まあとにかく、アル中であり、ヤク中でもある夫・シューマンをどこまで愛せるかって話ですわ。
 いつもの夙川座の舞台、バカバカしく愚かで切ない、それでいて魂が少しは浄化される、心洗われる救済劇にできたらいいなと思っています。
 乞うご期待。
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2018年11月05日

伊佐山紫文218

 昨日、本当につまらないことで警察のお世話になった。
 こんな下らないことであっちやこっちの警察署の手を煩わせて、本当に申し訳ない。
 色々と叩かれることの多い皆さまではあるけれど、やっぱり頼りになるのは警察だとつくづく思う。
 本当にありがとうございました。
 こんなとき、日本人で本当に良かった、と思う。
 最近、例のジャーナリストの一件で自己責任論がまたぞろ噴出しているが、確かにジャーナリズムに国境はない、けれど個々のジャーナリストには国籍があることも忘れてはならない。
 国籍を超えたつもりで取材をしていても、最終的に頼りになるのは国家なのである。
 以前、日本兵として大東亜戦争(と本人は言う)を戦った、ある台湾人にインタビューしたことがある。
 悪名高きインパール作戦に随うはずだったのだが、チフスにかかり、病状は長引いて、結局、今のベトナムで終戦を迎えた。
「エツナンのカナイで、エツミンのコチメイに武装解除された」
 え?
 もしかして、エツナン(越南)、カナイ(河内)、エツミン(越民)、コチメイ(胡志明)!
「ベトナムのハノイでベトミン(ベトナム民主解放戦線)のホーチミンに武装解除された」
 そういうことか!
「ホーチミンに会ったんですか?」
「ああ」
 この後の話はこんなところで書くような話ではないからよすが、たとえば80年代になってから、統一ベトナムの叙勲受賞者の中にゾロゾロと日本名が出始めて、やっと人々は気付き始めた。
 なぜ、ベトコン(ベトナム解放戦線)があれほど強かったのか。
 なぜ、あれほどアメリカ軍の戦略を知り尽くしていたのか。
 ベトナム戦争を取材した記者が北や解放区にあれほど容易く潜入できた裏に、現地に残った日本人と、その日本人とつながる日本国内の日本人のネットワークがあったことは昔から指摘されていたことではあったが。
 実は『ふたりのヨシコ』の取材中、関係者の中に外務省で「人には言えない仕事」に従事している人がいることを知って愕然としたことがある。
 そういう「人には言えない仕事」が、物語の世界ではなくこの世界に、戦前から今まで連綿と続いているという現実に愕然とした。
 そんな影の人々が、今回のジャーナリスト騒ぎでは活躍、というか、暗躍、でもないな、とにかく働いたのだろう。
 国籍を背負う以上、自己責任という軽い言葉ではすまされない現実がある。
 下手すれば「人には言えない仕事」の人々に助けて貰うことになりかねないのだ。
 比べるのもアホらしいけれど、昨日のちょっとしたトラブルも、警察だけの力で解決したのでは、おそらくない。
 まあ、私たち普通の日本人が自分で思ってる以上に、日本人でよかったねって話。
 警察の皆さま、ありがとうございました。 
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2018年11月05日

伊佐山紫文217

 妻と正倉院展に行って来た。
 70回目と言うことで、結構見応えがあった。
 中でも、螺鈿やタイマイ(ベッコウガメと言った方が通りが良いか)の甲羅を貼った八角形の箱(長たらしい名前にはうんざり。ただの綺麗な箱だよ、箱!)は圧巻だった。
 お供え物を入れたとか。
 仏像館も見て、興福寺の境内に入り五重塔を眺め、再建された中金堂の偉容を仰ぐと、桓武天皇がこの地を嫌った理由が肌で分かる。
 仏教勢が力を持ちすぎ。
 奈良時代の護国仏教とは、仏教勢の力をそれだけ認めるってことで、当時の寺は武装していたことを思えば、そうそう気持ちの良い場所ではない。
 長岡京というステップはあったものの、その後の1000年を思うとき、平安京への遷都は正解だったのではないか。
 もちろん、比叡山というやっかいな存在もあるにはあったが。
 で、そんなことを話しながら商店街に戻ると、昼食時の店はどこも一杯。
 いや……
 ガラガラの店もあったが、そういうところは怖いから避ける。
 合計年齢112歳の夫婦です、妙なものでカロリーを取りたくない。
 で、天理スタミナラーメンの支店にした。
 このチェーンは昔京橋にも支店があったが、本店とは懸け離れた味(もちろん悪い意味)で、すぐに潰れた。
 賭けになるが、入ってみた。
 カウンター席が一杯で、待つかと思えば二階があり、すぐに座れた。
 出てきたスタミナラーメン、悪くない。
 と言うか、むしろ旨かった。
 ただ、豆板醤を入れすぎたのが小さな失敗。
 それでもスープまで全部飲んだよ。
 入館まで一時間近く並んだんで少し疲れ、二人とも帰りの近鉄の中では寝てしまいました。
 
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2018年11月03日

伊佐山紫文216

 昨日「アンタ何モン?」ネタを書いたのは、実は先日届いた某新聞社のアンケートに答えるのに、前回とは全く肩書きが変わってしまって、いったい「今のオレは何モン?」状態になってることを少し整理したいと思ったからだ。
 アンケートとは言っても、普通の軽いものではない。
 今の日本を動かしている特別な人々のデータを集積したデータベースの更新アンケートなのである。
 そんなのがなんでアンタに?
 そう思うでしょ。
 実は、何を隠そうこの私、この新聞社が選ぶ「日本のキーパーソン」だったことがあるんです。
 この新聞社が発行する年鑑の「日本のキーパーソン」として、おそらく最年少で掲載されていた時期があったんです。
 平成になったばかり、まだ30代前半のこと。
 当時の私の個人的主観としては当然のことだし、何の感想もない、ハァそうですかレベルのこと、掲載された年鑑も買わないし肩書きなんか気にしない、新聞が付けたもので結構でございます状態で載っていた。
 そのまま数十年が過ぎ、何年かごとの更新が来て、今回、ハタと思い至った。
 当時とは、考え方も、肩書きも、やってることも違ってるじゃん!
 夙川座なんて会社も始めてしまってるし。
 上手くすれば、これ、仕事につながるんじゃないか?
 と言うことで、座長(社長)と話し合いながら、今回は慎重にアンケートを埋めていくことにした。
 著作よりも舞台作品を表に出すような格好にして。
 そしたら、いっそう「オレって何モン」なことになった。
 いやまったく、「アンタ何モン?」ってのはやっかいな問いですわ。
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2018年11月03日

伊佐山紫文215

 昨日「アンタ何モン?」ネタを書いたのは、実は先日届いた某新聞社のアンケートに答えるのに、前回とは全く肩書きが変わってしまって、いったい「今のオレは何モン?」状態になってることを少し整理したいと思ったからだ。
 アンケートとは言っても、普通の軽いものではない。
 今の日本を動かしている特別な人々のデータを集積したデータベースの更新アンケートなのである。
 そんなのがなんでアンタに?
 そう思うでしょ。
 実は、何を隠そうこの私、この新聞社が選ぶ「日本のキーパーソン」だったことがあるんです。
 この新聞社が発行する年鑑の「日本のキーパーソン」として、おそらく最年少で掲載されていた時期があったんです。
 平成になったばかり、まだ30代前半のこと。
 当時の私の個人的主観としては当然のことだし、何の感想もない、ハァそうですかレベルのこと、掲載された年鑑も買わないし肩書きなんか気にしない、新聞が付けたもので結構でございます状態で載っていた。
 そのまま数十年が過ぎ、何年かごとの更新が来て、今回、ハタと思い至った。
 当時とは、考え方も、肩書きも、やってることも違ってるじゃん!
 夙川座なんて会社も始めてしまってるし。
 上手くすれば、これ、仕事につながるんじゃないか?
 と言うことで、座長(社長)と話し合いながら、今回は慎重にアンケートを埋めていくことにした。
 著作よりも舞台作品を表に出すような格好にして。
 そしたら、いっそう「オレって何モン」なことになった。
 いやまったく、「アンタ何モン?」ってのはやっかいな問いですわ。
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2018年11月02日

伊佐山紫文214

 前にも書いたかも知れないが、よく聞かれ、しかも最も答えにくいのが、
「アンタ、いったい何モン?」
 という問である。
 モロボシ・ダンなら、
「僕は、実は、ウルトラセブンなんだッ!」
 とでも言って変身してみせればいいのだろうが、いかんせん、こっちは生身の普通の何の変哲もない市井の凡人である。
 何モンと言われたって……
 で、色々と素性を明かして最も驚かれるのが、私が大学院まで魚類学を専攻していたバリバリの理系男子であるということだ。
 今回「島ひきおに」の上演を観に久しぶりに日田に帰り、水郷(すいきょう)日田を構成する三隈川、花月川、中城川のほとりを散策する中で、自分の理系男子のルーツを思い出した。
 私が小学校の5年だったか、6年だったか、その頃、日田市に淡水魚センターという施設がオープンした。
 淡水魚の研究施設としては東洋一の規模という触れ込みで、しかも、市内の小学生は入場無料だったので、私は夏休み、春休み、冬休み、ほとんど毎日通った。
 私が今でも鯖の背のあの青い縞模様を見て胸がキュンとなるのは、その幼い日、水槽の上から覗き込んだイワナの姿を思い出すからだ。
 最初、鯖の背になぜ胸が締め付けられるのか、私にはよく分からなかった。
 想い出を色々と探るうち、淡水魚センターのイワナに辿り着いた。
 無意識ってのは、フロイトのトンデモ性欲説とは無関係に実在するってことだ。
 で、なんでそのイワナの姿が私の心にそれほど焼き付いたかといえば、それが初めて見た「泳ぐイワナ」だったからだ。
 淡水魚センターにいたのは、おそらく、原産地以外で、原産地の水を使わず、飼育された初めてのイワナだった。
 当時、どんな表現を使っていたのかは憶えていないが、とにかく、世界初の画期的なことだといわれていた。 
 それがどれほど画期的なことかは、イワナという魚の生態をそれなりに知っていなければ理解不能だけれど、とにかくもう、淡水魚少年だった私が日参するほど素晴らしい画期的なことだったのである。
 で、高校に上がり、進路を決めなければならなくなったとき、私は何の迷いもなく、淡水魚が研究できる大学を選んだ。
 国内での選択肢は二つしかない。
 京都大学か、愛媛大学。
 京都はハードル高いなぁ、愛媛にするか。
 教授のレベルからいえば、愛媛の水野先生は世界のトップクラスだし。
 しかも、愛媛なら、そんなに頑張らずとも通るだろうし。
 そんな感じ。
 で、卒業したら淡水魚センターにでも就職するかぁ。
 そんな感じ。
 まあ、世の中、そんな甘くはないことはそれから色々と思い知ることになるが。
 ちなみに、淡水魚センターはとうになくなり、今は日田天領水が水源を引き継いでいる。
 イワナの飼育を成功させたのは、当時の淡水魚センターの技術というよりは、天領水の水源のおかげではなかったのかと、今では思う。
 日田天領水も、懐かしくてしばらくは定期購入していたが、金がなくてやめた。
 ま、その程度のモンですわ。
 
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2018年11月02日

伊佐山紫文213

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 改めて紹介するまでもなく、中村草田男の名句であり、「明治は遠くなりにけり」の部分は、好き嫌いを越えた日本国民の言語的財産になっている。
 この句は『万葉集』の柿本人麻呂作

 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

 の畏るべき政治的叙情と並ぶ、日本人の心の詩だと思う。
 もし私が「明治は遠くなりにけり」を特権的に味わう資格があるとするなら、それは、私の誕生日である10月23日こそ、明治改元の日、即ち、明治時代の誕生日でもあるからだ。
 昨日、まさに私の誕生日に政府主催で「明治150年記念式典」が行われた。
 だからどうということもないが、ついこんな戯れ句を口ずさんでみたくなる。
 
 行く秋や昭和は遠くなりにけり(紫文)

 先に紹介した人麻呂の歌は、自らが仕える天智朝が滅ぼした天武朝の近江の都を偲んで歌ったものである。
 荒れ果てたかつての都を人麻呂が何年後に訪ねて詠んだのかは分からないけれど、その鎮魂と故旧の哀切さは何度読んでも胸を打つ。
 翻って草田男の句は昭和6年の作、明治から20年を過ぎてのものである。
 明治という時代精神は自らが生みだした近代によって滅ぼされてしまった。
 壬申の乱のような内乱こそ起こらなかったものの、日清日露の大戦を戦い抜いた明治精神は、昭和に入り、何か得体の知れないものに化け始めていた。
 そんな時代、ふと降る雪に思う「明治は遠くなりにけり」なのである。
 そして、平成が終わろうとしている今、私は「昭和は遠くなりにけり」としみじみ思う。
 かつて福澤諭吉は自らの人生をかえりみて「一身にして二生を経るが如く」(『文明論之概略』と言ったが、私などは、高度成長、IT革命、そして下手をしたらAI革命の4世を生きてしまうかも知れぬ。
 次の時代が何と呼ばれるかは分からぬが「平成は遠くなりにけり」とは詠みたくないものだ。
 そもそも字余りだし。
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2018年11月02日

伊佐山紫文212

 安田純平さんが解放されて本当に良かった。
 私も若い頃は国際ジャーナリストにあこがれ、あわよくばどこかの抵抗組織に捕まって内部情報をスクープ出来たら、などと下らぬ妄想に浸っていたことがある。
 ゲリラとか、反体制派とか、そういうのにロマン主義的な親近感を感じていたものだから、決してこちらを粗略には扱わないだろうと、勝手に思い込んでいたのである。
 そういう思い込みの犠牲になりかけた話。
 30年以上前、一緒に仕事をしていたイラストレーターの男。
 その男もまた、若い頃にはロマン主義的な理想を抱いて世界を放浪していた。
 で、軍事クーデターで軍が政権を握った、とある南米の国に潜入した。
 日本人は珍しいものだからすぐにワラワラと人が寄ってくる。
 市場でビールでも飲まないか、と。
 応じて、青空の下、片言の英語で談笑しながら気持ちよく飲んでいると、突然、大地を揺るがす轟音と共に、戦車がやってきた。
 マシンガンを肩にかけた兵士たちも小走りで。
 一緒に飲んでいた男たちは瞬時にして消え、そいつだけが残された。
 兵士たちはそいつを取り囲み、スペイン語で緊張したやりとりを続けている。
 そいつは死を覚悟した。
 それも、まともな死ではない。
 噂に聞く、軍部による拷問死……
 爪を全て剥がされ、歯を抜かれ、目玉をくりぬかれ、睾丸を喉に詰まらせての窒息死……
 ところが、連行された基地で待っていたのは暖かい抱擁だった。
「良かった、本当に良かった」と口々に言われる。
 一緒にビールを飲んでいた男たちは、現地では知らぬ者のないギャングで、外国人観光客を身ぐるみ剥いで殺すのをなりわいにしているのだという。
 しかもゲリラとしての顔もあるから、重武装していて警察では手に負えないのだという。
 日本人がギャングに捕まっている、という通報があったものの、警察は及び腰で、それなら、と、軍隊の出動となったわけだ。
 今度は兵士たちとビールを飲みながら、拷問死の話をすると、大笑いして、それはギャングの手口だという。
 裏切り者をそうやって殺すのだと。
 先進国のマスコミはゲリラの言うことを真に受けすぎる、自分らのやっていることを相手のせいにするのは左翼の常套手段だろ、と。
 そいつはワケがわからなくなって、早々にその国を引き揚げた。
 今、何をやってるかは知らない。
 日田の実家にはそいつの書いた色紙がある。
「色即是空」
 の文字が添えられている。
 一体何を悟ったのかは知らないが、作品としてはなかなか良い。
 とにかく、そうそう簡単に情報を信用してはならないということだ。
 今回、国際的な力学の中、サウジ記者の殺害など、色々な偶然も重なって、安田さんの解放に至ったのだろうが、本当に良かった。
 空即是色。
 
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2018年11月02日

伊佐山紫文211

 今朝話題にしたイラストレーター、三年前に車椅子で介護を受けている写真をFBに上げて、それを最後に更新なし。
 もう歳だったんだな。
 でも、子どもや孫に囲まれて幸せそうだった。
 放浪も止めて落ち着いて、アパートを借りて家族で住んでたらしい。
 同じアパートで幼少時代を過ごした女性が暖かい想い出をブログに載せてる。
 戦後、ロシア・アヴァンギャルの旗手からとったペンネームを使い、大阪の劇画革命にはせ参じた若い劇画家でもあった。
 この人にも様々なことを学んだ。
 追々書いていくよ。
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2018年11月02日

伊佐山紫文210

「クララ・シューマン 天才のヨメはん」の脚本にかかろうとしていたところ、急ぎの仕事が舞い込んできた。
 ここは座長(社長)の判断に任せるしかないので、いいですよ、やりますよ、としか言いようがない。
 やりましょう、とにかく、仕事があるうちが花なんだから。
 ハァ……
 やりましょう!
 はい……
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2018年11月02日

伊佐山紫文209

 10歳になる息子が色々と食べ物に難癖を付け始めた。
 今朝も、毎朝飲ませているサツマイモで作った自家製甘酒ヨーグルトが不味いという。
 旬のサツマイモを蒸かして米麹で糖化発酵させた甘酒をヨーグルトにしたんだよ。
 不味いわけがない。
 ほぼ完全栄養食だし。
 ま、少々癖はあるかもしれんが。
「男が食べ物のことでゴチャゴチャ言うな!」
「女は?」
「女はバカだからどうしようもねえんだよ、で許してもらえるけど……」
 と言おうとしたところ、「どうしようもねえんだよ」の後で間髪入れず、
「クラスの女子は頭良いよ」
 などと、現代っ子らしい半畳を入れられ、二の句が継げず、
「女はバカだからどうしようもねえんだよ」などと、どうしようもないバカ男の台詞になってしまった。
 妻からの冷たーい視線で、朝食の食卓が凍り付いたことは言うまでもない。
 だ・か・ら、お父さんの言わんとするところは、食事はただのエサの時間じゃないってこと。
 特に男にとっては。
 戦争が終わったら、まずは一緒に飯を食う。
 たいていは勝った側がふるまう。
 ここでマズイとか何とかゴチャゴチャ言って見、ぶち壊しになるから。
 現代でも、上司に誘われた店で、
「これ、化学調味料、どっさりぶち込んでますね」
 とかって、本当のことを言って見、翌日からの仕事が辛ーくなるから。
 男女関係でも、デートに食事が伴わない文化はない。
 そこで男がゴチャゴチャ言うて見、やれることもやれなくなるから。
 とにかく食事は人間関係の核なんだよ。
 だから、よほどの覚悟がない限り、男は好き嫌いや味の評価をすべきではない。
 女は少々愚かなことを言ってしまったところで、いわれた男も心の底では「女はバカだからどうしようもねえんだよ」と自分を棚に上げて思っているから、
「テヘッ、ペロッ」
 で許してもらえる。
 男はそうはいかない。
 執念深い男に食事のことで恨まれると、一生の禍根となる。
 だから、日頃から、味については沈黙を守る訓練をしておくこと。
 そうでないと、お父さんみたいになっちゃうぞ。 
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2018年11月02日

伊佐山紫文208

 ふと思い立って進化心理学を読み始め、そこから行動経済学や認知心理学、コンピューター科学へと読書の範囲が広がっている。
 これらの根っこにあるのは進化論だからと、その大本のダーウィンも再読し、改めてその偉大さを思い知ることになった。
 で、バカなことをしたな、と思う。
 生物学を続けていれば、この沃野を共に耕していただろうに、と。
 いや、と一方で思う。
 そもそも、私の大学院時代には大学にポストが無かった。
 今でこそ環境科学(エコロジー)と言えば花形だが、当時は「ハァ?」という感じだった。
 大学院を出たけれど就職先のない、いわゆるオーバードクター、今で言うポスドクが全国に何百人と溢れていて、とても研究者としての将来に希望が持てるような状況ではなかった。
 それでも、と、アカデミズムの世界に飛び込む経済力など、欠片もない。
 アカデミズムの中に居場所がなければ、それではマスコミで、と、雑誌の記者になって環境問題の記事を書きまくった。
 で、何年かして虚しくなった。
 書いても書いても、流れて消えて行くだけ。
 で、残るものをと、本を書こうと思った。
 これもまた、何冊か書いてみて、売れなければ在庫を抱えるだけだとわかった。
 人生のキャリア戦略を根本的に間違ったなと気づいたのが40前後、もう親の認知症が出始め、遠距離介護の生活に入る。
 介護が終わると、遅れてきた子育て。
 人生そのものは豊かになったが、在野の研究者としての立ち位置というか、そもそも何を研究してたんだっけ?
 研究どころか、今となっては他人の研究のエッセンスを舐めるように味わっているだけ。
 けれど、これが実に味わい深い。
 私は自分を芸術家だとか、アーティストだとか、そういう大層なものだとは一度も思ったことはないけれど、それでも言語を使って何かを表現はしてきた。
 その表現が人を揺さぶる原理、なぜ人は感動するのか、その心の動きについて、進化心理学や行動経済学、認知心理学は、重大なヒントをパラパラと断片的にではあるが、教えてくれる。
 それらをとりまとめて、論文ではなく、舞台作品として提供する。
 こんなことが出来るのは、学問を尊重する土地の医者の家系に産まれ、詩人の父に育てられ、大学院まで進化生態学を専攻した私だけだろう。
 とまあ、ここが今の自分の立ち位置かな、と、思っている。
 天才が直観でやっていることを、最先端の研究結果を踏まえ、科学的に、客観的に、論理的に組み立てて表現する。
 平凡な表現者が人を感動させようと思ったら、マジそれしかないでしょう。
 そんなこんなで、そろそろ次回公演の脚本、本格的に構想し始めますわ。
   
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プロフィール
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学生の頃から、ホールや福祉施設、商業施設などに呼ばれる形で歌ってきましたが、やはり自分たちの企画で自分たちの音楽をやりたいという思いが強くなり、劇作家・作詞家の伊佐山紫文氏を座付作家として私(浅川)が座長となり、「夙川座」を立ち上げました。

私たちの音楽の特徴は、クラシックの名曲を私たちオリジナルの日本語歌詞で歌うという点にあります。

イタリア語やドイツ語、フランス語などの原語の詩の美しさを楽しみ、原語だからこそ味わえる発声の素晴らしさを聴くことも良いのですが、その一方で、歌で最も大切なのは、歌詞が理解できる、共感できる、心に届くということもあります。

クラシック歌曲の美しい旋律に今のわたしたち、日本人に合った歌詞をつけて歌う、聴くことも素敵ではないかと思います。

オリジナル歌詞の歌は50曲を超え、自主制作のCDも十数枚になりました。

2014年暮れには、梅田グランフロント大阪にある「URGE」さんで、なかまとオリジナル歌詞による夢幻オペラ「幻 二人の光源氏」を公演いたしました。

これらの活動から、冗談のように「夙川座」立ち上げへと向かいました。

夙川は私(浅川)が関西に来て以来、10年住み続けている愛着のある土地だからです。
地元の方々に愛され、また、夙川から日本全国に向けて、オリジナル歌詞によるクラシック歌謡の楽しい世界を広げていきたいという思いを込めています。

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